「くにのあゆみ」と紀元節。そしてキリシタンご法度。
先回の終わりの部分に書いたが、敗戦を迎えた文部省の連合軍への対応は、敗戦直後であったにもかかわらず、それこそ先手必勝の快進撃であった。連合軍の日本占領の目的の一つは日本での①軍国主義の一掃と②民主主義体制の確立=基本的人権の尊重、言論、宗教、思想の自由に対する一切の障害を除去することであった。
占領は主としてアメリカ軍によって行われ、一部地域では英連邦軍が担当したが、上記の占領目的の実現は、ポツダム宣言に参加した連合国に対してアメリカが責任を負っていた。
日本放送協会に陣取ったアメリカ占領軍の民間情報教育機関(CIE)が、小学校の教科書から軍国主義と極端な国家主義的イデオロギーを排除するようにと指示したのは敗戦から約2か月後の10月22日であったが、文部省は既にその1か月前に、その作業を小学校に命じて「スミ塗り」という形で終えていた。
占領軍の意向を受けた文部省が全国の学校に対して奉安殿の撤去を指示したのは1946年6月29日のことであったが、この指示も待つこともなく、“とうの昔に”すべての小学校から御真影(天皇の肖像写真)と教育勅語はどこかへ運び出され、奉安殿はもぬけの殻になっていた筈である。
総司令部からの指示に対して、文部省からの回答はいつも優等生のそれ。
言われるその場で「もう終わっております」と過去完了形で受け流す。しかも削除や墨ヌリの基準は、指示を発する総司令部側にはあいまいなままに、先手、先手を打ってくる。この文部省の動きは、CIEの目に奇異にうつった。文部省のオーバーな恭順ぶり、或いは、自粛ぶりの背後にちらつく「底意」――その底意の正体は何か?
前述の白井曜子の「日本が『神の国』だった時代」によれば、文部省は総司令部に対して、決して恭順だったわけではない。CIEで教科書問題にかかわったハーバート・J・ワンダリックは、その著「占領下日本の教科書改革」の中で、文部省の教科書編集者たちは、軍国主義的文書の削除については理解したが、超国家主義的性格の内容については、かなり論争があった」ことや、「恒久的平和や民主主義および個人の尊厳という理想に基づいた新しい日本の公民の資質について、長々とした話し合いや論争がたびたび生じていた」と述べている。
つまり、総司令部への文部省の対応は、文章や写真、絵画、武道など“目に見える部分”では進んで軍国主義色を一掃し、総司令部側の好感を買おうとするが、“目に見えない部分”である思想や理念の部分には絶対に踏み込ませない、いや、踏み込ませないために、むしろ“目に見える部分”を率先して切り捨てて行くという作戦に出ていたのである。文部省は「少国民」と呼んだ子供たちに対して、上の者に対する「絶対服従」を説いて止まなかったが、自分たちは新しい支配者である占領軍に対して「面従腹背」あった。
しかし、文部省の「面従腹背」は、何もこれが初めてではなかった。
1858年(安政4年)というから、1945年(昭和20年)からさかのぼって87年前のことである。幕府治世下にあった当時の日本は215年にわたって海外との交流を絶ち、キリスト教の浸透を厳しく禁じて来た。
幕府は領民たちにキリスト教徒(キリシタン)ではないことを証明させるため、長崎はじめ九州各地で踏み絵を制度化した。
その日本がペリーによって開国を余儀なくされ、伊豆半島の先端にある下田に着任して来たアメリカの総領事タウンゼント・ハリスとの間で、通商条約締結の交渉を行ったが、ハリスはその条約を協議する中で、アメリカ人のために信仰の自由を日本側に求めるとともに、踏み絵の廃止を要求した。それに対して幕府は「外国との親睦のため、踏み絵は既に廃止致し候」と、やはり、過去完了形で答えたのである。
しかし、この時の幕府の役人のために弁明をすると、踏み絵こそ寛永5年 (1628年)以来、延々、親子7世代にわたり続けられていたが、それによって、キリシタンであることが露見する者が一人としていなくなったため、踏み絵の行事そのものが演技化し、丸山遊郭では、遊女の晴れ着を競う場に変化してしまうなど、本来の趣旨は全く忘れ去られていた。キリシタンは長崎においても既に「絶滅した」と思われていたのである。
その意味で、幕府の役人が「踏み絵は既に廃止した」と答えたこと自体に問題はなく、「面従腹背」ではなかった。ところがその後、長崎に接した浦上村にて潜伏中の大勢のキリシタンが姿を現したため、幕府に代わった明治新政府が禁教のための迫害に乗り出すに至って事情は変わった。
日本は“目に見える”手段としての踏み絵は廃止したが、“目に見えない”理念の部分、即ち、信仰の自由については、引き続き厳禁であった。キリスト教への信仰の自由は日本に滞在する外国人に対してのみ有効であったが、日本人には厳重に禁じられたままであった。その意味で、ハリスが幕府の役人から受け取った返事からは、日本における信仰の自由は、その実現に向けて、一歩も踏み出していなかった。
しかし開国後の日本には欧米の国々から大勢のジャーナリストが来日しており、彼らは彼らの目の前で繰り広げられる日本政府のキリシタンへの弾圧をそれぞれの国々へ伝えた。折しも日本からは、岩倉使節団が欧米各国を歴訪中であった。訪問団は幕府が欧米各国と締結した通商条約が不平等条約であったため、これを改めることを持ちかけたが、欧米列国側は判でついたように、日本のキリシタンへの弾圧を挙げ、まともに交渉しようとはしなかった。そればかりか、ベルギーでは使節団一行は激しいデモに襲われ、石や生卵をぶつけられるなど手痛い仕打ちを受けた。欧米の常識からすれば、キリスト教徒を、キリスト教徒であるがゆえに弾圧する国は野蛮国であった。日本はキリシタンを弾圧したままでは、欧米各国と対等な付き合いができないことを悟った。
そのため、日本は幕府時代から村々に掲示していた「切支丹禁制」の高札を撤去し、浦上のキリシタンに対する迫害をやめた。
一見、キリスト教を信仰する自由が到来したかのような処置であったが、今度の場合も「高札の撤去」と「浦上キリシタン弾圧の中止」いう“目に見える部分”に手を加えただけで、“目に見えない部分”であるキリスト教への信仰は依然として閉ざしたままであった。「面従腹背」の日本が戻って来たのである。日本は決して外圧に対して弱い国ではなかった。
それゆえ、その後の日本国内で、反キリスト教政策はどのように進められたかについて、話を進めて行くことになる。本稿は話が既に本筋からそれているように見えるが、実はそれていない。この話の続きは本稿の中で、後述する「神武即位」と「紀元節」との関連を通じて進めて行くことにする。
1946年(昭和21年)私は井の頭公園を通り抜け、森の中にあった明星学園中学校に入学した。校門の前には玉川上水が流れていたが、生活の苦しい時代であったため、この川で入水自殺をする人や、森で首を吊って死ぬ人が多かった。
1948年には女性と一緒に入水自殺をした大物小説家がいた。二人は体を紐でしっかり結び合っていた。太宰治であった。遺書には、「小説を書くのが いやになったから死ぬのです」 とあり、生活苦による自殺ではなかった。
1947年まで、学制はまだ明治以来の旧制であり、中学校は5年制で義務教育でなかった。従って校舎には4年生や5年生がとぐろを巻いてたむろしていた。教科書なるものは、新聞のような活字で印刷され、裁断も製本もなく表紙もついてない、四つ折りにされたわら半紙状の用紙が配られた。これは小学校も同様であった。
私たちの学年は、小学校が「尋常科小学校」最後の新入生となり、次の学年は国民学校「初等科」という新しい学制のもとでの入学であった。そして中学では旧制の最後であり、翌年からは63制による新しい教育制度に生まれ変わった。国民学校は再び小学校となったが、「尋常科」の尋常という言葉はこの3年9か月の戦争の間にすっかり時代遅れになっていたので復活することはなく、また、中学校がこの時から義務教育化したため、小学校の「高等科」がなくなり、必然的に「初等科」もなくなった。私たちは、不本意ながら、時代の境目を歩かされていたのである。
中学校では、歴史の勉強は「東洋史」や「西洋史」であった。「日本史」は小学校で修了したことになっており、中学校ではもう教えなかった。
私たちの学年は不運なことに12歳にして、早くも日本史を教わったことのない古い世代に属する人間になっていた。私たちは二つの時代の間に横たわっていた深い裂け目に落ち込んでしまった「路上放置」の身の上であった。
私はわずか半年前、教科書に黒々と塗ったスミの跡が、大きな黒点となって、心の中にも塗られていることを痛感した。
しかしその後文部省は、修身については廃止とし、新たに道徳と言う時間を設けることとし、地理については文部省が新たに編集した暫定教科書によって7月から、日本歴史については、1946年に発行される国定教科書「くにのあゆみ」を使って、10月からそれぞれの授業を再開することになった。
私は小学校の恩師・小池喜孝先生を訪ね、教科書・「くにのあゆみ」の斡旋をお願いした。入手次第、時間をかけて自習をする計画であった。
日本の歴史から神様を取り除いたら何が現れるのか?‐-興味があった。
やがて小池先生からお声がかかり、私は先生のお宅に「くにのあゆみ」を受け取りに行った。先生は「はい、これ」と言って本を渡してくれたが、それ以上は何もお話にはならなかった。私にとっては敗戦によって教科書の記述が変わってしまうことは「天変地異」に引き適するような大変動であったが、先生は実につまらなさそうな顔をされて「くにのあゆみ」を渡してくれたのであった。私は意外な感に打たれて家に帰った。
この「くにのあゆみ」については、こんにちでも、「天皇中心の軍国主義的な記述から、科学的・民主的な記述への転換がはかられた」とか、「従来の人物中心の国定教科書とは大きな違いをみせており、大和・奈良・平安……昭和という時代区分にしたがった歴史的叙述形式をとり、なによりも神話の記述がなくなっていた」と、その改革について好意的に評価されている。
確かに、小学校の5年生を苦しめた「神勅」や「御歴代表」は姿を消し、その他の神話も霧散していた。
ところがその中で、神様がおひとりだけ生存しておられた。神武天皇である。
神武天皇は神倭磐余彦(かむやまといわれひこ)」と別名を使って、忽然とお姿を現わされ、大和の樫原(かしわら)で、初代天皇として即位の座についておられた。
しかし現実には神武天皇も、その即位なるものも、日本の歴史には存在しない。どうしても存在したというのであれば、それは古い時代の話ではなく、1872年(明治5年)の太政官布告によって作り上げられたものとして、認識する以外にない。その年の1月 29日が「日本・紀元」の祝日と定められたが,翌 1873年,日本は暦を旧暦(太陰暦)から新暦(太陽暦)に切り替えるとともに、2月11日を紀元節とし、祝日にすることを布告した。これが紀元節の起源であり、神武即位の事始めである。
ところが、最初の紀元節から13日後の2月24日、政府はこれも太政官布告によって、キリシタン禁制の高札を撤去し、島根県の津和野など数か所に配流していた浦上キリシタンも解放した。キリシタン禁制の撤去と紀元節開始という2種類の布告が、同一線上で、まさに「間髪入れず」に実施された。この二つはまさに「あざなえる縄の如し」であった。
紀元節はキリシタン禁制とその撤廃の後を受け、その延長線上に生まれた祝日である。
諸外国の激しい抗議の中で、日本はキリスト教の弾圧を国策として維持でき
なくなってしまったということは、既に書いた通りである。
これからは、キリスト教に日本国内での布教を認めなくてはならず、その結果として、町々、村々に伝道所(教会)が建設されるだろうし、キリスト教の病院や学校・幼稚園も建てられて行くに違いないし、信者の数が増えることは避けられなくなる。従来のように、うわべではキリスト教の容認を装いながら、頑なに弾圧を継続するという、「面従腹背」は通用しない。
そこで政府の考えたことは、日本国内でキリスト教徒が増えるにしても、彼らをマイノリティーにとどめて、日本文化と風土の中に封じ込めてしまおうということだった。要するに、日本国内にキリスト教というタネをいくらまいても、芽が出ないようにしようというものである。
当時の日本政府が紀元節を制定しなければならなかった理由がここある。
愛を説くキリスト教の教会に対して小学校では徹底した皇国史観や超国家主義を植え込んだ。その役目を背負ったのが、紀元節であった。
新暦は、「年」の表示に、キリストの誕生年を起点とした西暦が使われる。これについても、日本は非常にナーバスであった。
西暦に関する事件としては、幕府から貿易を許可されたオランダの東インド会社が1639年(寛永16年)、肥前・平戸に建設した倉庫に西暦年号が示されているとして、すべての建物が撤去されるという事件が起きた。
西暦を口にすることや表記することも既にご法度だった。西暦の使用などが当たり前になり、それに西洋文化とキリスト教が知らず知らずのうちに日本社会に浸透してくるのを幕府や明治政府は恐れた。
西暦に代わって日本政府が使ったのは、明治以降、日本政府が決めた「一世一元」の年号制度である。西暦は昭和20年の敗戦まで、日本の社会で殆んど使われることがなかった。但し、国史の教科書では、「皇紀」(こうき)、日本紀元が使われていた。
紀元節が祝日として定められた17年後の1889年(明治22年)の2月11日の紀元節には大日本帝国憲法と皇室典範が交付された。
大日本帝国憲法は日本の基本法であり、天皇が「臣民」に下した欽定憲法であった。「不磨の大典」とされ、これを変えることは当時としてはあり得ないことだった。このように、国の機軸になるものや、戦略になるもの、そして国体に関するものは、紀元節に公布することによって、神域に近づき、権威を高めるものになった。
この明治憲法公布式典のあとは、日本ではじめて万歳の三唱が行われた。
こうして紀元節は、キリシタン禁制から進んで、大日本帝国としての基本理念(建国の理念)や、海外に領土を拡大することを合法化する超国家主義、天皇を現人神(あらひとがみ)へと祭り上げるとともに政治の上でも絶対主義的天皇制を推進した。
昭和になり、国民生活の中にラジオが入って来ると、ラジオは紀元節に宮中音楽である雅楽を流し、日本中を神々しくし、「神国・日本」の雰囲気を演出した。そして、日本は天上の神によって作られた「特別の国」「ありがたい国」ということが強調された。
その紀元節は敗戦によって消滅し、神話で始まった日本の歴史から神々は姿を消したが、1年ぶりに「くにのあゆみ」の発行とともに、神武天皇のみは名を変えたが健在であった。もちろん、明治5年太政官布告の神武天皇であった。
敗戦の折のアメリカ占領軍民間情報教育機関(CIE)は、数々の指令を打ち出したが、それに対する文部省の回答は、いつも、「それはもう終わっております」という過去完了の回答であった。その手回しの良さと調子の良さ。CIEは「文部省に底意があるとして不信感を募らせていたが、その底意の正体が、1872・明治5年の神武天皇であり、神武天皇によって引き出されて来る紀元節であった。
占領軍の目の前で神武天皇を復活させたことで、小学校の歴史教科書をめぐる日米の綱引きは、文部省の大成功で終わった。
しかし、その紀元節は「くにのあゆみ」の発行の2年後の1948(昭和23)年に廃止された。その3年後の1951年、連合国との間で、講和条約が締結され日本は独立するが、その時点から「紀元節復活」の声が自民党や神社筋、右翼から盛り上がり、1966年に「建国記念の日」として復活した。
その「建国記念の日」がこれからの日本にどのような役割を果たすのか?それは今、みなさんがこのブログでお読みになった通りである。