スペイン風邪の話

 5月に、いったん沈静化したかに見えた新型コロナ・ウイルスが、7月に入り再び勢いを盛り返しそうな状況であり、何とも不気味な昨今である。
 わたくしたちが、パンデミック(感染爆発)pandemicを経験するのは初めてであるが、今から約100年前、私たちの親や二世代前の人たちは、このパンデミックを人類として始めて経験した。
 このパンデミックは、世界中で広く、「スペイン風邪」( 英語: Spanish Flu (influenza) と呼ばれているが、スペインは断じてスペイン風邪の原産地ではない。
 スペイン風邪と呼ばれるパンデミックが発生した1918(大正7)年は第一次世界大戦の最中で、主な戦場はヨーロッパであったが、各国はイギリス、アメリカ、ロシアなどの連合国とドイツやオーストリア=ハンガリーの同盟国に別れて戦争をしていた。
 両陣営ともパンデミックが大々的に押し寄せ、多数の死者を出したが、このようなニュースは自国にとって不利になるので、報道は抑えられた。ところが、スペインは中立国であったため報道は自由。感染状況の実態は「ありのまま」に伝えられた。そのため、スペインが一番目立ってしまい、あたかもパンデミック発祥の地であるかのような印象を持たれてしまったのである。おかげでこの国は今日に至るまで、病名に国名をつけられてしまうような不名誉にして、迷惑な結果を背負ってしまった。
 しかし、実際の発祥地は、アメリカ・カンザス州のファンストン基地だったと見られている。
この基地からヨーロッパ西部に到着したアメリカ軍兵士らがウイルスを運んだと考えられており,感染はあっという間にポーランドにまで広がった。パンデミックはアメリカ軍よりも進撃が速かったらしい。
日本に於ける感染は「前流行」と「後流行」の二波に別れたという。「前流行」は1918年の感染拡大。「後流行」は1919年の感染拡大である。どちらも同じH1N1型のウイルスが原因であったが、現在の研究では「後流行」の方が致死率が4倍超にはねあがったという。この二つの流行の間にウイルスに変異が生じた可能性もあったのでないかといわれている。
 全世界の感染者は1918年 1月から 1920年 12月までに5億人に達したとされ、これは当時の世界人口の4分の1程度に相当した。
その中には 太平洋 の孤島や 北極圏 の人々も含まれていた
 冒頭から話が私ごとで申し訳ないが、その太平洋の孤島である日本国・九州の玄界灘沿いの港町・若松(現在の北九州市若松区)で、私の母方の祖母は、このときのスペイン風邪で落命した。
なお、北極圏でスペイン風邪にて落命した人々については後で触れる。
 スペイン風邪は、まさに2 0世紀最大の規模のパンデミックであり,かつ、死亡者数では人類史上、最大級の世界的流行であった。
当時は点滴もなければ、人工呼吸器もなかったので、治療は一般の風邪の対症療法しかなく、感染者はただ寝かされていただけであった。要するに「処置ナシ」だったのである。多くの感染者に肺炎が急速に進行し、発症から2日後には死亡したという。
感染は1920年(大正9年)には沈静したが、その恐怖感はあとあとまで尾を引いた。
第一、パンデミックの感染患者を目の当たりにしていながら、病気の真の原因については不明のままというのは恐怖であった。原因であるインフルエンザ・ウイルスが発見されたのは1933年(昭和8年)のことであったが、パンデミック終息後15年も経過していた。
再び、話はわたくし事になるが、私の中学校(明星学園)の代数の教師に須藤亀蔵という先生がおられた。  
この先生がある日のこと、授業中に、突然ヴィールスの話をされたのである。1948年のことである。
先生のお話では、ウイルスは細胞がなく小器官もないので自己増殖をすることができないので生物の範疇には属さない。しかし他の生物に寄生して増殖をするので、遺伝子は持っている。従って生物であるという、たいへんややこしい話であった。
 「そんな不気味な妖怪が私たちの前途に待ち受けるようになった」というのが、先生のお話であった。
 非常に貴重な話であり、授業の合間の余談として聞き流してしまうことはたいへんもったいないことだと、私は感じた。
 一方、私の記憶では、私が幼稚園に通いだした1938年(昭和13年)ころ、私たちの周辺は「スペイン風邪」の噂でざわめき出し、外出にはマスクが必須になるという風潮が現れた。
幼稚園の友だちの中には、脱脂綿にアルコールを染み込ませて「指頭消毒器」なる小さな金属の容器にひそませて、持ち歩くのが流行っていた。時折、彼らは脱脂綿を取り出しては指を拭いた。すると、そのたびにアルコールの匂いが周辺に流れ、いい香りがした。
 私は何回かその金属製の容器を買ってくれと母親にねだったが、母親は買ってくれなかった。
 そのうち、母はどこで仕入れてきたのか、アルコールで消毒していると、強い黴菌が現れた時、「小さな消毒力」では負けてしまい、かえって大病になると言い出して、私のおねだりを完封した。
 そのようなことがあって、1938年ころのスペイン風邪は噂ばなしで終わってしまい、時勢は戦争へ戦争へと流れて行った。
 その60年後、1997年8月にアメリカ・アラスカ州の凍土より発掘された4つの遺体から肺組織検体が採取され、ウイルスゲノムが分離された。これでようやくスペイン風邪の病原体の正体が明らかとなった。何と1世紀を股にかけた追跡によって、スペイン風邪の正体が突き止められた次第であった。現在のコロナビールスでも、ワクチンの開発など治療の基本がまだ確立していない。その意味で、私たちは百年前の先輩たちと同じような次元で右往左往しているのかも知れない。以上。


Maraming Saramat Po (フィリピン・タガログ語)~ありがとう 💛投稿欄


Nakayama Ikumi 貴重なタイムスリップですね。


Uramatz Mikio そう思いますか?これは1940年(昭和15)入学までの1年生「修身」の教科書です。翌年からは教科書もガラリと変わって軍国調になります。


Nakayama Ikumi その時代のノンフィクションが消えてしまわない為の大切なドキュメントですね。ありがとうございます。


浦松様
写真や絵で昔の服装を観察するのは面白い,
自分を思い出すと小学校では靴だったとおもうが,高校のころ朴歯の高下駄をはいて電車にも乗っていたのを思い出します.帝劇はさすがに入れてくれなくて,劇場の藁草履をはかされて恥ずかしかった.小学校入学式,卒業式,いずれも母親たちは和服ですね.
新山


浦松幹雄様  大井啓男です。
ブログ拝見。有難うございました。
確かにあんな感じでしたね。
4歳年上の兄が小学校に上がった時には未だ皮のランドセルがありましたが、我々が小学校にあがった時期にはすでに皮が軍用に回ってしまったのでしょう、手に入らなくなっていました。
地図ではあと、世界地図の南太平洋に「委任統治領」が赤で囲ってありましたね。


azuo Matumoto 私は、戦後の昭和26年生まれです。とても貴重な絵と文章をありがとうございます。小学校の時に先生から戦時中の話を聞かされました。勿論両親からも繰る話を聞かされました。私の父は、大正元年・母は明治44年生まれで、母が40歳の時にわたしが7番目の子として生まれました。戦争は二度としてはいけませんね。ありがとうございました。(Facebookより)


浦松さんのブログ拝見しましたがすごいですね!(^^)!
わたしはパソコンやスマホの操作が苦手なので
ブログやフェイスブックなど手を出すことができません。
浦松さんのブログ、今後も見させてもらいますね。
梅雨になりムシムシしてきました、体調には十分注意してください。
それではまた (@^^)/~~~👋
         大村雅子

☞谷口直三さんからお感想を頂きました。グログに直接頂きましたので、先回のブログに併載いたしました。

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