東京大空襲・上聞に達す 2

♦「ヒュル」「ヒュル」「ヒュル」
昭和19年(1944年)11月1日の東京への偵察飛行以来、サイパンのB29は日本本土へ日参するようになり、毎日、日本の空のどこかで飛んでいることになった。当然、日本人の生活は大きな変化を余儀なくされた。空襲が日常性の中に飛び込んできて、いつ爆撃
されて殺されても、また銃撃されて殺されても、それが「当たり前の生活だ」という生命の保証がない毎日になってしまったのだ。
 11月24日、これまで1機だけで続けられて来たB29による東京偵察飛行が、1万メートルの高々度ではあったが、111機の編隊を組んで、東京上空に現れ爆弾を投下し始めた。いよいよ、空襲が本格的となった。最初の標的は東京・西郊の武蔵野町、三鷹町にまたがる中島飛行機製造の工場であった。
 中島飛行機製造は日本最大を誇る航空機生産企業で、陸海軍 両方に対して様々な機体を製造していた。特に機体の量産能力には定評があり、1万機以上生産された零式艦上戦闘機
(ゼロ戦)を例にとると、開発元である三菱でさえ約4割のシェアであったのに対し、他はすべて中島飛行機の生産であった。
 そのため、アメリカにすっかり睨まれた同社は、この日から終戦までの約9カ月間に十数回の銃・爆撃を受け、500発以上の爆弾を投下され命中した。死亡者は200名以上にのぼり、500名以上が負傷した。工場は全くの廃墟と化した。
 しかも、B29は中島飛行機への爆撃以外にも、行きがけの駄賃と言わんばかりに、周辺の住宅などにも爆弾をばら撒いて行った。
爆弾の投下が始まると、「ヒュルヒュルヒュル」という金属音が、くっきり晴れた東京の空に響き渡った。慌てて防空壕に飛び込む。  
爆弾がいかにも自分に向かって落ちて来るような恐ろしい響きであった。気が付くと体 縮み上がっていた。身をかがめていた私たちはその金属音の恐怖に声を出すことも出来なかった。 
 爆弾の前部と後部には金属製の風車が取り付けられており、これが落下時に「ヒュル、ヒュル」と鳴ったのである。この音は壕内にて膝を抱えてかゞみ込むすべての人の全身を包み凍らせた。
「ヒュル、ヒュル」が鳴り終わると、ちょっと間をおいて、爆弾の破裂音が周囲を圧した。その「ちょっとの間」が非常に恐かった。壕の頭上で、爆弾がすぐ破裂するのではないかと想像させたからである。自分の体が手、足、首、内臓、バラバラになって空中に飛散する光景がまぶたに浮かんだ。
 爆弾の「ヒュル」「ヒュル」はその破裂音で終了だが、爆弾は間髪入れずに次々に投下される。前の「ヒュル」「ヒュル」が終わる前に新しい「ヒュル」「ヒュル」が、前にも増して大きな音で響いてきて、息をつくいとまもなかった。
 やがて爆撃が終わり、「ヒュル」「ヒュル」も消えると、防空壕の中にホっとしたため息が漏れた。瞬間ではあったが「助かった」という思いが、壕内に漂った。
 あくる日学校へ行くと、子供たちは空襲の話で持ちきりであった。子供たちは「ヒュル」「ヒュル」の音と死の恐怖を語り合った。
 しかし、子供たちの中には、必ず一人、子供なりに兵器に精通した「物知り」がいるものである。
 その「物知り」の説明では、「ヒュル」「ヒュル」は、もちろん、攻撃される側の人たちに恐怖感を与えるためのものであるが、爆弾が至近弾の場合、「ヒュル」「ヒュル」の時間は短くなり、直撃弾ともなれば、もう聞くことが出来ず、いきなり破裂して、爆弾と共に、人生も終りであった。
つまり、私たちのように、爆弾が投下されてから目標物に到達するまでの間、あの「ヒュル」「ヒュル」を聞いて、恐がっていた者は、恐怖感と引き換えに命中を免れ、生命が保障されていたことになる。「本当に恐いのは何の予告もなしに襲い掛かって来るやつだ」と、彼は説明した。「ヒュル」「ヒュル」は、もう普通の「恐い」を通り越し、いよいよ救いのない恐さになり、その恐さからの逃げ場もなくなってしまった。
翌月12月3日の空襲の際に、中島飛行機を攻撃した後のB29、86機の編隊は、中野区、杉並区、板橋区(今の練馬区)一帯の住宅地にも爆弾を浴びせて去って行った。
 私ごとになるが、そのうちの一つが、私の級友であった堀江聖一君の家を、殆ど直撃した。彼の家は中野区鷺宮2丁目にあり、私の家は同4丁目にあった。両地域の間には妙正寺川が流れ、西武鉄道が走り、立ち並ぶ住宅に隣接するように畠があり、水田があった。
 つまり、丁目は一つ跳んでいたが、水田や川のある低地を挟み、二つの丘陵が丁目と共に向かい合って相対する地形だったのである。 
 この日も私たちは防空壕に身を潜め、あの「ヒュル」「ヒュル」の不吉な音に身を堅くしていたが、そのうちの一つの「ヒュル」「ヒュル」が爆発音に変わった時、それは堀江君の生命を奪った。
 彼の家の防空壕は住まいの真下に掘り込まれていたので、家屋が震動するとともに、壕に
大量の土砂が流れ込み、彼は妹、そして二人の弟と共に生き埋めになってしまった。
 B29が退去した後、ただちに救出作業が行われたが、4人の子供たちは既に事切れていた。私たちの場合とは異なり、この日、堀江君や堀江君の家族を襲った「ヒュル」「ヒュル」は、極めて残酷な悪魔の正体を現したのだった。
 戦争はついに友人とその弟妹の変わり果てた姿を、身近に見せる局面に到達した。

軍部はこんなチャチな防空演習を繰り返してはお茶をにごしていた。これは国民の間に、
防空意識を高めるどころか、空襲を甘く見る風潮を育っていった。


♦空襲で明けた昭和20年
最近、出版されている「空襲の記録」ものに目を通すと、昭和20年元旦の東京に空襲があったという記事に出会うことがない。しかし当日、東京上空にB29は侵入していたし、「空襲警報」のサイレンも高鳴り、敵機の襲来を告げるラジオの「東部軍情報」も鳴り響いていた。高射砲は目標のB29には到達しなかったが、それでも撃ち上げられていた。
大晦日から元旦にかけて東京には3回にわたってB29が来襲した。
 昭和20年は空襲で明けた1年であり、B29の翼と怪音の下で迎えた新年だった。山田風太郎の『戦中派不戦日記』には、次のように記されている。
「敵機はすでに頭上を去り、向うのほうで除夜の鐘は凄絶なる迎撃の砲音。清め火は炎々たる火の色なり」
 随筆家であった徳川夢声の日記
 「三時頃の高射砲と半鐘で起きる。
敵機はすでに頭上を去り、向うのほうで焼夷弾を落としている。大変な元旦なり」
 ところで、昭和20年(1945年)に生まれた人は、今年76歳である。
 令和2年の大晦日。年越しの除夜の鐘を鳴らさなかったが、これは人出を抑えることで、パンデミックを防止するためであった。ところが昭和20年の場合も、お寺の鐘は鳴らなかったが、これは戦争遂行のため、「国家のお役に立たなくてはならない」とのことで、殆どの鐘が供出を余儀なくされ、お寺の鐘楼はカラッポであった。この時供出の対象になった鍋釜等と共に、溶かして兵器に作り替えようとしたのである。
 従って、昭和20年を迎える年越しの主役はお寺の鐘ではなく、消防署の半鐘であった。B29が侵入してくれば、まず、サイレンが鳴るが、それが町や村単位で直近に迫ってくれば、半鐘が乱打される。
 しかし昭和20年元旦の空襲は、日本軍側にとって、これと言って、大きな戦果はなかったが、B29もまた、大きな攻撃を加えることがなかった。おかしな言い方だが、元旦の空襲は平穏だった。
 平穏ではあったが、「日米の交戦」はゼロではなかった。どこかでは爆弾が落とされ、死傷者もいた。しかし、東京はじめ、日本本土に対する空襲が凄惨を極めるようになったのは、むしろ、その年の春以降のことであり、そのきっかけになったのは、本稿のテーマである3月10日の「東京・下町の大空襲」であった。
 このような情勢の中で、「規模の小さな空襲」や「被害の少ない空襲」は省略され、いつの間にか、なかったことになってしまったのである。


♦敗北的なデマとそうでないデマ
2月に入ると、新聞に「敗北的なデマが増加」したとの記事が見える。「東京で1月以来、敗北的なデマを飛ばし、検事局に送検された件数が40件余あった」というものである。この手の記事は、時折、新聞を賑わしてきたもので、特に昭和20年の「戦局悪化」の時勢が反映してデマが増加したものではなかったと思う。
しかし戦時中、私服の刑事はよく街頭に出て、人々の話に聞き耳を立てていた。これはこの手の新聞記事とは関係なく、かなり頻繁に行われていたことである。戦時下の日本は巨大な「監視社会」であり、社会全体が塀のない刑務所であると言ってよかった。
 街頭の通行人や立ち話をしている人たちの中から、少しでも「怪しからん言動」があると警察に連行して搾り上げた。このような、運悪く捕まった人が、この年の1月以来、40人ほどいたというのが、この記事の趣旨である。
 当時、「敗北的なデマ」として、私の耳に聞こえてきたものに、次のようなものがあった。疎開先の仙台地方での話だが、「塩竃神社の本殿の扉が開けられるのは、年に一度、例祭の日だけだが、最近、誰も開けた者がいないのに8寸ばかり扉が開いていた。だから戦争は8月に終わる」。
 この話は神社・仏閣の名前を変えて、全国的に流布されていたという。
 四つの島に閉じ込められ、空からは空爆を受け、どこにも逃げ場がなくなってしまった日本人の絶望的な思いが込められた、非常に切羽詰まった、やるせない気持ちの「敗北的なデマ」である。しかも戦争の終了を「8月」と正確に言い当てていたところが「ご愛嬌」であった。
 しかし76年後の今日、このような「出来損ないの怪談」を、まともな日本人の大人が真剣に話し合っていたのか」と、訝る人も多いだろう。今となっては本当に信じられない、実にばかばかしい話である。
 もちろん、私たちの周辺で、このような話が交わされたことは公私ともになかった。しかし、市井全体を見回すと、この種の「敗北的なデマ」は、かなり広範囲に。しかも静かに語られていた。
 また、このような「敗北的なデマ」を「ばかばかしい」とばかりに、笑い半分に人に語ったところ、それが憲兵や特高刑事に聞きとがめられ、弁明などは一切認められず、デマ吹聴の廉で送検されてしまった人もいた。つまり、デマをたしなめるつもりで話したことが、逆に「飛ばした側」に組み込まれてしまったのである。
ところで、ここに「敗北的なデマ」という目新しいデマの形容詞が登場している。
「敗北的なデマ」とは、一体何であろうか?
デマとはデマゴギーdemagogyの略である。ドイツ語であるが、同時に当時は使ってはいけなかった敵の言葉、英語でもある。日本では流言やうわさなどの同義語として用いられるが、本来は政治指導上、好ましくない話の内容を意味し、通常、非難の意味を込めて使われる。つまりデマと言えば、特に断りを入れなくても「敵性」であり「敗北的」だった。
一方、民衆のなかで自然発生的に生まれ、口コミで伝播される「下からのデマ」がある。これはしばしば真実の核心を内蔵し、政治権力の弾圧や抑圧への消極的抵抗として発生することが少なくなかった。これは権力者から見た場合「敗北的なデマ」となり、取締りの対象になった。
 「上からのデマ」は、支配者が自己の政治的目的のために、意図的かつ組織的に計略し、流布するもので、たとえば、関東大震災の折に、朝、毎、読の三大紙を通じ、日本の治安当局が意図的に宣布した「朝鮮人暴動説」や、学童への教育の中で教科書などを通じて、国民の精神に刷り込んだ「元寇・神風襲来説」などの例がある。
したがって、「上からのデマ」(官製デマ)と、「下からのデマ」(流言飛語)とは本来、概念的に区別されなければならないが、支配者が内密に民衆のなかに虚偽情報を植え付け、あたかも自然発生的な流言であるかのように仕組んで、民衆の抑圧や操作への口実を意図的に作ったりする例も多く、両者を区別しにくい場合が多い。(つづく)

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