英機を撃て

エイキと読むのか? ヒデキと読むのか?
●1942年、昭和17年、私は小学校の3年生だった。目白寄り、林泉園の森を背にした近くの通りを歩いていた時、真っ黒な電柱に白墨で「英機を撃て」と書かれた落書きを目にした。
 瞬間、私の頭の中に大きな疑問が沸いた。
 「あれはエイキと読むのか、ヒデキと読むのか?」
 当時の大日本帝国「少国民」のはしくれとして、当然、私は「エイキ」と読んだ。
 「エイキ」とは英国の飛行機のことだ。しかし、そのように読んでみても、何か違和感があった。なぜ英国の飛行機を撃つことを、わざわざ落書きをして回らなければいけないのか?」
太平洋戦争が始まってからの日本は行くところ、行くところ、連戦連勝であった。真珠湾に碇泊していた米艦隊を奇襲、アメリカは全艦艇が撃沈されるか、使い物にならなくなった。
“赫赫(かくかく)たる戦果”の2日後、日本軍はその「返す刀で」マレー半島クアンタン沖で航行中だった英艦2隻を捕捉、激しい攻撃を浴びせ撃沈してしまった。しかもその翌日、我が「海鷲」は、敵艦が撃沈された水域に、上空より一輪の花束を投下して、死した英国水兵に追悼の意を表して、大和魂の美しさを遺憾なく誇示したものだった。
宣戦布告に先立って、日本軍は英領だったマレー半島に上陸、樹木がぎっしり詰まったジャングルをかき分けて南下してシンガポールを攻略。さらに香港を占領し、ビルマまで攻め込んだ。
英国の国旗・ユニオン・ジャックと白旗を掲げて日本軍に投降した敵将・パーシバルに対して「無条件降伏、イエスかノーか」と、目をひん剥き、怒声豊かに迫る我が山下奉文将軍に対して、イギリスに何の恨みもない私でさえ、思わず歓声を上げ留飲を下げた。
 アジアにおけるイギリスの勢力は一掃されたと考えられた。もちろん、南の果てに、英領のオーストラリア(豪州)があり、パプア・ニューギニアやニュージーランド、ソロモン諸島周辺に点在する小さな島々が英領として残っていたが、本国の大英帝国が枢軸側の日独に降伏すれば、これらの地域は、当然、日本領に編入されるであろうし、それは「現下の情勢より判断して」時間の問題であると考えられていた。
 イギリスはもはや日本を空爆する力はないし、日本近辺に忍び寄って来る気配もなかった。従って、その頃の感覚でも、恐るべき敵はアメリカであり米機であり、落書きをするのであれば「米機を撃て」と書くべきであろう、と私は考えたのである。
 だから「英機」が「エイキ」でないとすると、残る答えは「ヒデキ」となる。しかしそれは恐ろしい着想であった。「ヒデキ」とは内閣総理大臣・兼内務大臣・兼陸軍大臣・陸軍大将・東条英機閣下のことである。
 日本はその東条首相を先頭にして、一致団結して米英と血みどろの戦争をしている。そのような時に『ヒデキを撃て』などと落書きをして歩くとは、とんでもない奴だ」と私は思い、そこで思考を停止させ、かつ、忘れてしまった。しかしそれからひと月もすると、「あれはエイキと読むのか、ヒデキと読むのか」と反復しはじめ、しばらく考え、再び思考停止に陥って忘却した。
落書きそのものは、人々の間で話題になることもなく、その一度の登場だけで、私たちの眼前に現れることもなかったので、私は何回か思考停止と忘却を繰り返し、堂々巡りの末、最後は本格的に思考停止をして忘却した。その記憶がよみがえったのは、最近のことである。
 一方、その頃の実際の戦況は、日本に不利になっていたが、私たちにはそのようなことは知らず、まだ戦勝の余韻で浮かれていた。
●真珠湾奇襲大成功の大歓声から、僅かまだ半年後の1942(昭和17)年6月5日、ミッドウエイ島攻略をめざす日本海軍は、待ち受けていたアメリカ海軍に反撃され、投入した空母4隻が撃沈され、帰還の場所を失った搭載戦闘機約290機と、操縦していた熟練した戦闘員のすべてを失ってしまった。この時以来、アメリカは新開発の電波探知機(レーダー)を艦船に装備し、遠方から迫って来る日本軍の動きを捉えて待ち受け、先手を打って攻撃するようになった。アメリカは戦争のやり方を変えたのである。
 この海戦の失敗は日本にとって致命的であった。戦局は逆転し日本が敗戦に向かったことは、「天下分け目の決戦」として、広く知られている。
この時の大本営は、日本側の損害を「空母1隻喪失、同1隻大破、巡洋艦1隻大破」と、被害の実態を隠蔽して発表した。しかも景気よく「軍艦マーチ」の鳴り物入りであった。これでは、事態の深刻さは国民の誰にも伝わらないが、肝心の大本営も、これ以後、戦局を糊塗したり、ごまかしたり、口先きだけで乗り切ることに磨きがかかり、揚げ句の果てに自分自身も自ら作ったウソによって欺かれてしまった。
 ガダルカナル島から日本軍が「転進」(撤退のこと)したのは、ミッドウエイ海戦から半年後であるが、その間、日本軍はパプア・ニューギニアに入り込み、既に敗北への道を辿っていた。
 ラバウルを攻略した日本軍・南海支隊は東部ニューギニア第一の要衝、ポートモレスビーを目指して、8月18日、同島東岸のブナに上陸し、オーエン・スタンレー山脈を豪州軍の抵抗を排除しながら突進した。しかし、あと少しのところで退却せざるを得なかった。ガダルカナルの戦局が悪化して軍の補給(食糧と弾薬)が続かなくなったのである。一方、満を持した米豪連合軍は南海支隊に対して猛然と襲い掛かってきた。南海支隊は食料不足と高山地帯の寒冷な天候によって、言語に絶する悲惨な状況に陥った。つまり、戦死よりも先に空腹と餓死に直面したのである。
 1942年(昭和17年)12月8日、開戦から1周年と言う記念すべき日に、ギルワ、パサブァ地区に圧迫された800名の日本軍が全滅し、さらに年が明けた1月2日にはブナでも2000名の日本軍が全滅した。日本軍陣地では歩くことができず、脱出は勿論自決もままならないほど衰弱した兵隊が抵抗を試みたものの占領され、約70名の日本兵が捕虜になった。
はじめての玉砕とされるアッツ島を約半年も早い玉砕であったが、大本営は黙殺した。
かれこれ5年ほど前、戦争が終わってから70年ぐらい経っていたが、パプア・ニューギニアから戦時中の日本軍の犯罪行為について補償を求める陳情団が来日した。その陳情団代表の女性は、テレビにて「戦争中、私たちの同胞が腹を減らした日本兵によって食べられてしまった」と語っていた。これを聞いて、私は「話が逆ではないか」とビックリ&ガックリ。戦争中、私たちは学校や家庭で、日本軍がパプア・ニューギニアに進撃を始めたことに関連して、人を食べる習慣のある人種の住む国に行く日本の兵隊さんは大変な危険を背負ってしまう」などと同情をしたことがあったからである。(後日、パプア・ニューギニアでの食人習慣は、18世紀末には消滅していたことを知った)
戦争が終末に近づき、補給活動が至る所で分断されると、日本軍の大量餓死は、例えば、フィリッピンや小笠原諸島で、「人を食べる」ところまで追い詰められ、残酷な様相を示すに至った。
国内の各都市では「食糧増産」が叫ばれ、使っていない土地の開墾や家庭菜園作りが奨励されたが、その標語が「腹が減っては戦さは出来ぬ」であった。ところが親愛なる味方の日本兵が、南海の果てで、餓死に追い込まれ、戦争どころではなくなっていることを、私たちは想像もできなかった。
●その頃、首相官邸では東条に向かって参謀本部作戦部長・田中新一が「馬鹿野郎」と暴言を吐く事件が起きた。いわゆる「東条罵倒事件」である。
補給困難のため、戦闘が著しく困難になったガダルカナルに対して、参謀本部は海軍と連携してさらなる大兵力をガダルカナルへ送り込もうと計画した。東条がそれに反対したところ、部下である作戦部長から、逆に怒鳴られてしまったのである。
東条は冷静に「何を言いますか。統帥の根本は服従にあります。しかるにその根源たる統帥部の重責にある者として、自己の職責に忠実なことは結構だが、もう少し慎まねば」と穏やかに諭した。これを受け参謀本部は田中に辞表を書かせ南方軍司令部に転属させた。
かくして、ガダルカナル進攻作戦は失敗に終わり、飢餓集団と化した日本軍がガダルカナル島から撤退したのは翌年の2月1日のことであった。
 当初36、000名であった兵力のうち、25、000名が戦死、戦病死という被害を出していたが、死者の多くは餓死であった。
ほとんどの部隊では、フラフラと何とか歩ける兵士はすべて食糧の搬送に当たり、陣地を守るのは、立つこともできなくなった傷病兵という状態に陥っていた。
「陣地を守る傷病兵」といっても、そこにはもう、日本軍は二度と戻って来ることはない。つまり、傷病兵は足手まといとして、陣地もろとも見捨てられたのである。
そういう中で、やっと手に入れた食糧を戦友のもとに届けようと最後の力を振り絞り、背中に米を担いだまま絶命する兵士もいれば、食糧搬送の兵を襲って米を強奪する兵士も現れる状況になった。また、食糧の欠乏が深刻になるにつれて軍紀の荒廃も極まり、飢えた兵士の中から人肉食も発生した。こうした軍紀の乱れは「遊兵」と呼ばれるどの部隊にも属さない兵を生み出し、日本軍の組織的戦闘能力は消滅した。
新聞紙上、ガダルカナル島は略して「ガ島」と報じられたが、当時の新聞はこれに餓死の「餓」の文字を当てて、悲惨な日本兵の実情を伝えたが、国民にとって、これはまだ他人事であった。

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