神功皇后と卑弥呼②

 応神天皇をあやす武内宿祢


まず、神功皇后を描いた先回の絵馬であるが、今回の話は応神天皇がまだ生まれていない場面からスタートするので、絵馬から天皇の姿は消える。従って、武内宿祢(たけのうちのすくね。以下、宿祢という)は手持ち無沙汰である。代わって、そこには神武以来第14代目と言われる仲哀(ちゅうあい)天皇がいて琴を弾いている。神を招くためである。一行は九州南部に陣取る熊襲と一戦を交えるため、大和からこの地、筑紫の訶志比(かしい・香椎)に来ていた。ここで、今回の話の舞台は絵馬から一転して古事記へと移る。
ところが、一転したその瞬間、皇后は突然神懸りとなった。皇后に神霊が乗り移り、極端に論理を飛躍させたり、科学的には考えられないことを狂信したりして、倒れこんだり、踊りだしたり、奇声を発したり、言動が常軌を超えてしまったのである。
 宿祢が皇后の口から洩れる神の言葉を伺った。
 神はこう言った。
 「西の方に一つの国がある。金や銀をはじめとして、目に眩いほどの珍しいさまざまの宝物がその国には多い。私がその国を従わせてあげよう」。
「西の方の一つの国」とは韓国にあった新羅(しらぎ)のことである。
仲哀天皇の前に控えている人物は、皇后と宿祢しかいないから、ここで「神の言葉」とは、皇后の奇声に基づいて宿祢が語っていることになる。
だから、天皇はこう答えた。
「高い所にのぼって西の方を見ても、国らしいものは何も見えぬわ。ただ大海に波のきらめくのが見えるばかりじゃ」
 天皇は「何が神だ。うそ偽りばかり申しおって」と考え、手許の琴も脇にどけ、再びかき鳴らそうともしなかった。
 それを見て神を演じる皇后と宿祢は激しく怒った。
「私の教えた国だけでなく、この国とても、汝の治めるべき国ではない。汝はこの世の国々ならぬ遠い国に一筋に行け」
 しかし続けて宿祢が宿祢として言った。
「神様に向かってもったいのうございます。そうおっしゃらないで、大君、その大琴をお弾き遊ばせ」
 天皇は気の進まぬ手つきで琴を鳴らしたが、いくらも弾かないうちに琴の音は止った。
 仲哀天皇の息の根はすでに絶えていた。
 歴代天皇の中でも、妻との仲を揶揄され「仲哀」などと名付けられたのである。こんな気の毒な天皇はいない。
 かくして、皇后の兵は韓国を目指すことになるが、この時、応神天皇はすでに皇后の胎内にいた。
 皇后の船は海の神の加護があり、海中の魚という魚が、皇后の船を背負い、新羅の海岸まで運んだ。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、続けて高句麗・百済も朝貢を約したという。
世に「三韓征伐」と言われるものだが、古事記、日本書紀に、このような言葉は登場しない。韓国側にもこの時の戦争の痕跡は見当たらない。 
やはり、神話の通例。事実無根なのである。
 筑紫に帰国後、皇后は子供を産んだ。あの応神天皇である。産んだ地には「宇美」という地名がつけられ、今日でもこの地名は健在である。また、宇美の隣にある志免(しめ)という地域は、応神天皇のおシメを取り換えたのが町名の由来であるとの説が流布されていた。同町内に御手洗(みたらい)という名前の地域もあったため、この説はかなり説得力があった。
 しかし、極めて落ち着いた説明では、隣町にある宇美八幡宮のしめ縄が、この地で作られたからというのが名前の由来らしい。
 皇后の一行は、生まれたばかりの応神天皇を抱いて大和へと帰還した。
 ところで、仲哀天皇崩御から応神天皇の即位まで、日本の皇統譜に天皇が存在しない時代が続いたことになる。その期間は約70年間である。その空白の期間について、明治時代から大正時代にかけて、一部の史書に、神功皇后が第15代の天皇であると書かれ、皇位に空白はなかったとされていた。
 神功皇后の業績を見れば、皇后は天皇であり、日本初の女帝(女性天皇)とされたのだ。
 ところが、皇后の場合、天皇に即位をしたという記述が古事記や日本書紀に存在しない。
 通常、古事記、日本書紀は天皇の一代記で推移しているので、即位という行事は特に記載されない。しかし、神功皇后の場合、皇后の地位から天皇の地位に登ったとされると、即位の儀式は必ず挙行され、それは記述されるものだと考えられた。その記述がなかったのである。 
1926年(大正15)の皇統譜より、神功皇后は歴代天皇から外され、応神天皇が第15代天皇となった。(つづく~次回でこの項終了)


写真集・昭和ヒトケタ10年代 uramatz.web.fc2.com

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