軍隊がなくなった日の夜

 終戦から一週間ほど経ったある夜のことである。
 当時、私たちの家族は東京・中野区の鷺宮という町に住んでいたが、そこには山手線の高田馬場から西武線が通じている。今日では西武新宿を始発とする西武・新宿線だが、この電車は鷺宮を経由して西に延び、埼玉県の所沢や川越に向かう。
そして、この話の舞台となる武蔵関駅も鷺宮より5駅西方のこの沿線にある。
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 夜の帳がトップリ暮れた芋畑の中の細い道を、母と私は武蔵関駅に向かって歩いていた。二人の背中には、今しがた農家から買い入れた薩摩芋を入れたリュックが重たくのしかかっていた。
 これは母が大切にしていた着物が化けたものである。戦い、日を追って我に利あらず、敗色を重ねるにつれて、インフレが進み貨幣の値打ちが下落した。そのため、食糧品の買い出しなどには、物々交換がよく行われた。
 食糧を買うために、一つ一つ、自分の着物や持ち物を手放すことを一枚ずつ皮をはいでいくさまにたとえて、ひとびとは「タケノコ生活」と呼び、また、愛着する持ち物を手放す切なさを、涙を流して皮を剝くさまにたとえて、「タマネギ生活」と呼んだ。
 さて、駅に至る道は当時のこととて、外灯もなく、真っ暗であったが、それでも月明りを頼りに歩くことができた。ところが、武蔵関駅に着いた頃は、空も厚い雲に覆われたらしく、駅構内は真っ暗であった。
 いつ来るか判らないけれど、電車は動いている」という駅員の返事が暗闇の中から帰って来たので、私たちはホームに歩を進めた。とは言っても、何も見えないので、手を思い切り前に伸ばし、何かにぶつからないように用心をし、そろりそろりと足を進めた。当時、西武新宿線の駅のホームには、どの駅も中ほどに決まって待合室があったので、私たちはそこに入り、いつ来るとも知れない電車を待つことにした。
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  引き続き闇の中である。しかしその闇の中で、何か動くものがあり、音がした。
  明らかに人がいるようであったが、いくら目をこらしても私たちは何も見ることができなかった。
  不気味さの中で、母も私もおし黙り、ひたすら電車が来るのを待った。
  そして1時間ほど待ったであろうか、やがて東の方向に、豆粒のような明かりが見え始め、2本の線路を鋭く照らし、駅の方に近づいて来た。下りの電車が到着したのである。私たちはホッと安堵して緊張をほどき、深く溜息をついた。
  ところがその瞬間であった。
  待合室からドタドタと大きな男が飛び出し、その電車に飛び乗ったのである。その人物は陸軍の将校であった。将校であるにもかかわらず、軍帽は頭になく、しかも私たちと同じ待合室の中で酔い潰れていたのだ。もちろん、私たちがこの待合室に入ったときに聞いた音の正体でもあった。
  電車が発車すると、ホームは再び闇の世界に閉ざされた。しかし、それから30分ほどして、反対方向から電車がやって来たので、私たちは乗車した。

  ところが、車内は兵隊たちの歌声で沸き返っていた。「ツーツーレロレロ、ツーレーロ」ーー卑猥な歌をいつ果てるともなく歌い狂っていた。
 軍隊は解散し、彼らは故郷に帰って行く復員兵士であった。
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 鷺宮で電車を降り、ふと我に返ったとき、母は「やっぱり、日本は負けたね」と言った。
 本当にがっかりしたような声であった。
                       終


罹災したビルの残骸と復員兵士



 
千葉県いすみ市・いすみ市文化財保護協会 会報・「いすみ文化」2010年10月号より


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