神功皇后と卑弥呼 ③(最終回)

 ところで、神功皇后を邪馬台国の卑弥呼であると最初に比定した人は、「日本書紀」を編纂した舎人親王(とねりしんのう)であった。
 言うまでもなく、3世紀末に中国で書かれた「魏志倭人伝」に登場する「邪馬台国の女王」のことである。
 「魏志倭人伝」は卑弥呼について次のように述べている。
 「其の国、本(もと)亦(また)男子を以て王と為(な)し、住(とど)まること七八十年、倭国乱れ、相(あい)攻伐(こうばつ)して年を歴(ふ)。乃(すなわ)ち共に一女子を立てて王と為し、名づけて卑弥呼と曰(い)う。鬼道を事とし、能(よ)く衆を惑わす。年巳(すで)に長大なるも、夫婿(ふせい)なく、男弟ありて治国(ちこく)を佐(たす)く。王と為りしより以来、見る有る者少なし。婢千人を以て自侍(じじ)せしめ、唯男子一人有りて飲食を給し、辞を伝えて出入りす。居所の宮室は楼観城柵を厳かに設け、常に人有りて兵を持して守衛す。」
この文中で、卑弥呼は「鬼道を事とし、能(よ)く衆を惑わす」とあるが、これは先回の神功皇后が神懸りになり、その意味不明の言葉や奇声を武内宿祢が人間の言葉に置き換えて人々に伝えた話と酷似している。
 このような記事を読んで、舎人親王は神功皇后のイメージを卑弥呼に重ねたのかも知れない。いや、舎人親王にはちょっとした創作趣味があって、魏志倭人伝の卑弥呼から、神功皇后のキャラクター作りを思いついたのかも知れない。果たしてどっちだったのか。


 魏の年号である景初2年(西暦238年)、魏の都・洛陽に女王国からの使節がやって来て、明帝(曹叡)に拝謁、貢物を献上した。
 生口(せいこう)と称する奴隷・男4人、女6人、それに班布2匹2丈であった。
 魏志倭人伝が描写した倭は「海中洲島の上に絶在し、或いは絶え或いは連なり」とあり、今にも波に呑まれそうな島々で、中国の人の目には、とても人間の住める場所とは思えなかったが、そのような僻地から、万里の波涛を乗り越えて、倭の女王が使節を送って来たのである。皇帝はいたく感動した。
 そして、卑弥呼には「親魏倭王」の位とそれを証する金印紫綬、また使節の二人にもそれぞれ位と印を与えた。また、倭国には錦地など、卑弥呼には錦地のほか、白絹、金8両、五尺刀、銅鏡、真珠、鉛丹を与えた。倭から持ち込んできた貢物に対して、明帝のお返しは豪華絢爛であった。皇帝の感動がひしひしと伝わってくるようだ。
 しかし、これらの品々は果たして無事、倭に着いたのであろうか?邪馬台国には使節の帰国や、品々の到着どころか、国の存在そのものが記録されていない。邪馬台国では文字はまだ使われていなかったが、往時のこととて、これらの品々や人々を乗せた船は嵐などに巻き込まれて、沈没したかも知れない。
 しかし、一つ判ることは、日本の国家の原点とも言うべき邪馬台国は、中国の冊封(さくほう)体制のもとでスタートしていたことである。
 その頃の中国の皇帝は貢物を持ってきた周辺諸国の君主に対して、その地位を承認(安堵)するとともに、君臣関係を結び、宗主国対藩属国という従属的関係を築いた。これが冊封体制である。
 古代のこととはいえ、このような日中関係に異を唱えたのが、江戸時代後期の国学者・本居宣長 (もとおりのりなが・A.D.1730〜A.D.1819) であった。(以後、宣長という)宣長は『古事記』の精密な研究により日本古道を説き、外来思想を排除して日本古来の精神に返ることを主張。尊王論を唱えた。日本の国粋主義の萌芽である。
 宣長の言う外来思想には、中国や朝鮮、インドなどが含まれていたが、「日本書紀」は、中国思想によって、毒されたものだった。
 宣長は「神功皇后ともあろうお方が、中国皇帝に、こんな態度で臨むとはありえないことだ」と主張した。
 そして魏の都・洛陽に使者を遣わした女王とは邪馬台国の卑弥呼ではなく、熊襲の女酋であったとした。
 宣長の解釈は、皇国史観というイデオロギー主導であって、歴史的根拠も科学的根拠も存在しない。実は読んでいて非常にシラける類のものである。しかし、戦時中までの私たちの時代の「国史」教科書は、まったく、この手のひとりよがりなものだらけであったことを、改めて銘記しなければならないと思う。

邪馬台国の女王 卑弥呼



ありがとう  中山育美さん。


中山育美さんからのご感想文
 鮮やかな、素晴らしい絵ですね。絵にして残したい場面としての、作家の魂と力量を浦松さんがインスパイアされて、記事を書いていらっしゃる…。古事記のチカラ、真偽のほどは分からない部分も多い、神話と史実の間こそが面白いと思います。日本人にとっては、聖書みたいなものだと思うのですが、盲信されても恐ろしいし、存在すら忘れさられてはいけない、難しい存在でもあり、興味があります。歴史は為政者によって作られたり、歪められたりする物だ、という事だけは、常にセットなのだと思います。明治になって神功天皇が皇后に格下げされた事まで書いて下さるのが、素晴らしいと思いました。

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