東京大空襲 上聞に達す。  ①

濃くなる敗色

東京上空に入って来たB29。



♦昭和20年(1945年)3月10日。土曜日。東京大空襲のこの日は陸軍記念日であった。その昔、日本軍は満州の荒野でロシア軍と18日間に亘る激闘の末勝利し、明治38年(1905年)のこの日、奉天(今の中国、遼寧省の瀋陽)に入城した。陸軍記念日はその日を記念して制定されたもので、それ以来、毎年、この日は陸軍を讃える各種の行事が行われ、軍国主義国家・日本のバックボーンとしての大日本帝国陸軍の威信は、いやが上にも高揚された。しかし昭和20年に迎えたこの日、陸軍の威信に、もう昔日の面影はなかった。
 開戦からわずか半年後に起きたミッドウエー海戦での敗北や、ガダルカナル島からの「転進」などを機として、太平洋の戦局は日米攻守の立場を変えた。日本軍は太平洋の島々で、上陸して来た米軍に次々と粉砕され、領土を奪取された。
 「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」――日本軍は敵軍に投降し捕虜になることを許されなかったから、孤島での戦いの最後は、全兵員が米軍の機銃乱射の中をうごめきまわり、一人残らず射殺された。その全滅に至る兵隊たちの死を、新聞は「玉砕」と美化し、「何たる荘厳!何たる壮烈!」と飾り立てたが、血が流れ、死体が累々と転がる「全滅」の現場など、新聞記者が見て書くわけがない。空虚な言葉の遊びであった。
昭和19年6月15日、アメリカ軍はサイパン島に強行上陸、日本兵が全滅するのに1か月もかからず、7月9日、サイパン島はアメリカ軍の手に落ちた。
 サイパン島と東京との直線距離は2357 キロメートルである。一方、B29の航続距離は2トン爆弾を積んだ場合で、5230キロメートルであった。つまりB29は日帰りで日本中の都市や軍事施設を攻撃できるようになったのである。
 11月1日。東京に空襲警報が発令され、人々の耳に、日本の戦闘機と違った、聞きなれない飛行機の爆音が響いて来た。「どこだ」「どこだ」と、人々は一斉に空を見上げた。空はくっきりと晴れ上がった日本晴れ。そこに一筋細くて白い飛行機雲が流れていた。B29の姿は見えなかったが、その白く細長い飛行機雲が延びて行く先端に、けし粒のような小さな黒い点があった。黒い点は時々ピカッと銀色に輝いた。それがB29だったのだ。そのB29をめがけて、地上から、しきりに日本軍が高射砲を発射し、その炸裂した弾丸の白い煙が見えたが、日本軍の高射砲弾はどれ一つとしてB29に命中しなかった。いや、命中するもしないも、届かなかったのだ。B29は1万メートルの高々度を飛行していた。日本軍の高射砲の弾は8千メートルまで飛ばすのが限度であった。
 この日のB29飛来の目的は、この日から具体的に爆撃のターゲットになった東京市街の偵察であり、撮影であった。B29は目的を達すると、悠々とサイパンへと帰って行った。
この民衆が群れを成して敵機の攻撃を眺めている光景は、当局の目から見ると「利敵行為」であった。まして、味方の高射砲弾が届かない高さを敵機が飛行して状況を、民衆が下から見ていることは、当局は絶対に許してはならないことであった。その現場には幸い警察官などがいなかったものの、いれば、誰かが拘束されてしまうだろう。そんな雲行きは、当時の人たちには十分判っていた。高射砲がB29に届かないさまを見た人々が「なあんだ」と失望の声を上げたが、その時、“当局の意向を承知している“人々は我に返ったように「高射砲の破片が危ないから、防空壕に入りましょう」と言い合って、それぞれの防空壕に散って行った。しかし、高射砲がB29に届かなかった話は、すぐさま世間に拡がった。(つづく)

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