代数担当の須藤亀蔵先生 考古学を語る

 前回「スペイン風邪」について書いた中で、私が中学生時代、明星学園にて須藤亀蔵(すどうかめぞう)先生に代数を教わっていた時、先生が突然ウイルスの話をされたことを書いた。
 方程式の解き方の説明の時に、なぜウイルスが飛び出して来たのか、その前後のことは、私にはまったく判らない。先生の授業は、その時、どのように流れていたのか?また、先生は何を考えておられたのか?
 この話を読んで、明星時代の友人、新山英輔(にいやま・えいすけ)と戸坂海(とさか・うみ)の両氏から、感想のメールが送られて来た。
 二人とも「須藤椿事」というべきウイルスの話を全く覚えていなかった。
 その筈である。二人は授業そのものに全神経を集中し、方程式を解くことに没頭していたのである。授業と関係のない話にかかわっているひまはなかったと思う。
 ところが私は数学がまったく苦手。方程式の授業なんかに気持ちが全然乗っていなかった。
 そんな時に飛び込んできたのが「須藤椿事」だったのだ。
 二人から寄せられた感想文は本稿に続く「投稿」欄に紹介するので、ぜひお読み頂きたい。
 ところで、この話と同年である1948年・昭和23年、この「ウイルス」の話の何日か前に、もう一つの「須藤椿事」があった。
 それは須藤先生が「放射性炭素年代測定法」の話をされたことである。これも代数の時間にもたらされた唐突発言であった。
 放射性炭素年代測定法とは、考古学上の年代測定法であって、遺跡から発掘された動植物の骨や繊維などが何年前のものだったかを測定する方法を指すものである。その時、代数を教えていた須藤先生の講義にこの話が登場しても、生徒は一体何のことやら判らず、恐らく違和感すらもなかっただろう。
 もっとも、放射性炭素年代測定法という言葉は、その頃、まだ世の中に存在していなかったと思う。
 生存中の動植物は空気を吸い、酸素や窒素などと共に、放射性炭素も吸収し、体内に留めているが、死亡すると、放射性炭素は外部からの供給が途絶え、以後、年を経るごとに、一定の割合で減少していく。
従って減少する前の炭素の数から遺体に残されている炭素の数を差し引けば、それらの生物が死滅してから遺体として何年後に発見されたかが判るし、何年前には生息していたということも測定できるというものである。
 須藤先生によると、「この年代測定法が軌道に乗ると、これまで信じられてきた考古学上の年代は、すべておジャンになり、今使っている考古学や歴史の教科書は全部書き換えを余儀なくされてしまう」というものであった。
 教科書が使えなくなるといえば、私たちはそのわずか4年前に、教科書にスミを塗ったばかりであった。そんな暗い思い出がノソノソと私の頭の中を動きまわった。
 私はこの話を「須藤椿事」の数日前に担任で社会科担当の角館喜和(かくだて よしかず)先生から聞いていたので知っていた。確か、角館先生とのその件の話は休み時間中の1対1の立ち話であった。
 従って、私は須藤先生の話の中身には、それなりについて行けたものの、なぜ須藤先生が、突然考古学の話に立ち入ってこられたのか、その真意は判らなかったし、未だに判らない。
  1948年の時点で二人の先生が、このような話をされたということは、その頃にこの年代測定法についての発見があり、新聞記事にでもなっていたに違いない。
 ごく最近、そう思いついた私は、手っ取り早く、ウイキぺデイアを検索してみた。すると、案の定、「須藤椿事」と「角館発言」前年の1947年、アメリカ・シカゴ大学のウイラード・リビー博士(Willard Frank Libby)がこの年代測定法を発見しており、博士はこの発見により、1960年度のノーベル化学賞を受賞していたとのことであった。
 考古学的遺物の年代を放射性炭素の減少具合を調査して測定するという話は、聞くだけでも画期的であり、「これからの考古学はどのように展開していくのか?」と、たいへん、興奮させられる話でもあった。
 もともと考古学の研究は、地中から発掘された遺物が相手であるが、その遺物が存在した時代の人間は、まだ文字と言うものを持っていなかったので、記録されたものがない。そこで、掘り出された年代の地層によって、年代を測定するなど、地質学とのつながりが深い。遺物が発掘された地層を大きなファイルに見立てる「層位学的方法」による年代測定法である。
ところが放射性炭素年代測定法は、考古学の中でもより近代に近い部分での――日本史についていえば、旧石器時代から新石器時代、縄文式時代から弥生時代についての—-年代測定が客観的にできるようになったとされた。
 この発見は、文系である史学と理系である化学との間の垣根を取り払っただけでなく、発掘物に対する「国による解釈の違い」という、セクト主義やナショナリズムの垣根をも取り払う可能性を示したのであった。
 そして….それから55年を閲(けみ)する。……………..。
 2003年(平成15年)になって、5月20日、私は朝日新聞紙上に、まぶしい思いを秘め、目をしばたたかせながら、「稲作伝来、500年早まる」の見出しを見た。そのあと「歴史観の大幅修正も」「弥生時代、紀元前1000年から」と、サブタイトルが続き、放射性炭素年代測定法の登場を知らされた。発表は千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館(歴博)であった。
 58年前の須藤先生の顔が鮮やかによみがえった。
 記事によると、「同博物館の春成秀爾教授(考古学)、今村嶺雄教授(歴史資料科学)を中心とする研究グループは、検査・分析などに用いる材料を福岡市の雀居(ささい)遺跡や橋本一丁田遺跡、弥生文化が日本に上陸したとされる玄界灘沿岸の梅白遺跡、東北地方や韓国の出土品から、土器に付着したおこげや杭(くい)など32点を収集、同博物館でこれらの材料の前処理を行なった後、アメリカの測定機関を通じて加速器質量分析計(AMS)で分析、さらに実年代に直す補正をした。
 その結果、弥生文化が日本に定着し始めた頃のものとされる板付⒈式土器(福岡県)は、従来は紀元前400年前後のものとされていたが、この分析では、紀元前800年頃のものと判定された。弥生早期の紀元前500年~400年とされて来た夜臼Ⅱ式土器は、紀元前900年頃だった。さらに縄文晩期後半の黒川式土器は、紀元前1200年という数値が出たため、同博物館は黒川式と夜臼Ⅱ式の間の夜臼⒈式土器を紀元前1000年前後と導き出した」
「今回の分析では、出土遺物から日本の弥生早・前期に当たるとされてきた韓国の遺跡の遺物も、日本の早・前期の遺跡に近い実年代と特定された。
 従来、指摘されてきた朝鮮半島と九州北部との文化伝播の年代のズレが解消されるとともに、朝鮮や中国との文化交流史研究に新たな視野が開ける可能性が出て来た」と、いうのであった。
 記事前半のおこげや杭など、検査・分析などに用いる材料を集めた遺跡と後半の検査結果によって発掘物の年代が500年前に移行した遺跡の記事が、何の説明もなく同居しているため、読んでいて混乱するが、要は放射性炭素測定法によって、従来の学説が覆される状況になったのだ。
 当然、このニュースには衝撃が走った。
 弥生時代の始まりが500年早くなり、西暦前1000年であったということは、中国の歴史に置き換えてみると殷(イン)~西周(サイシュウ)の時代に当たり、その頃、中国では武器や装身具などの素材に青銅が使われていた。
 歴博が「新・年代測定法」を発表した6日後の朝日新聞には「『年代が古いほどいいという意識があるのではないか』『新説通りなら、日本列島の鉄器の使用開始が紀元前800年となり、中国と肩を並べる。そんな技術が当時の日本にあっていいのか』などの厳しい質問が相次いだ」と、超満員の会場で、時間を延長して開かれた日本考古学協会総会での「新説発表」の折の会場の雰囲気を伝えている。
 歴博の今村教授は、AMSを使った測定法(放射性炭素年代測定法)で、弥生早期から前期にかけての炭化物11点を調査した経緯を説明した。さらに、中国・後漢の墓から出土した木片を測定した結果が実際の年代と符合したことなどを根拠に「AMSを用いた年代測定は信頼できる」と述べた。
 それに対して出席者からは「資料の数が少なすぎる」「もっと精度の高いデーターが欲しい」という指摘が相次いだという。いずれもニューカマー(新参者)に浴びせられる「拒絶反応」である。「頭から否定することは出来ないので否定はしないが、賛成などするものか、とりあえず否定だ。否定だ」というわけである。
 しかし、ご要望に応じて、新しいデーターが積み重ねられていけば、放射性炭素年代測定法は、ますます優位になるのではないだろうか。
 昔、中学、高校の時代の授業時間。歴史の先生を含めて、よく、こんなことを言われた、
 「未開時代に生きた我々の祖先は、文字を持たなかったので、世の中の動きを記録することができなかった。だから歴史の勉強を通じて、人類の過去を学ぶことは出来なかったし、これから将来に向けて、どのように生きるべきか、考えることも出来なかった。
 その点、文字によって記録し、記録されたものを読み、思考を深めることが出来る我々は、どんなに幸せであるか判らない」。
 果たしてそうであろうか?
 文字が出来たおかげでひん曲げられた歴史もある。その代表が古事記・日本書紀である。


「歴史の勉強も本ばかり読んでいると歴史が判らなくなる」

「放射性炭素年代測定法」テキスト
          「弥生はいつから」国立歴史民俗博物館・発行



イヤイライケレ (日本・アイヌ語)~ありがとう💛投稿欄


浦松様
須藤亀蔵先生の話をよく覚えていたね.えらい! 
ぼくのいた1組でもウイルスのこと話してくれたのかもしれないが,全く記憶にない.
須藤先生は探求心があり,ちょっと質問すると必死で調べ始めるので答えがなかなかいただけなかったりした.そのご僕の父のいた富士精密ーープリンス自動車に入られ,操車技術の専門家になられた.数年前まで葉書をいただいたりしていました.90何歳だとか自慢してた.
 (😊「亀蔵」などと万年も生きる名前を名乗りながら、90何歳生きたぐらいで自慢しているようでは困る……..浦松😊)
僕の母は1908年生まれで戸畑で育ちました.若松のこともよく話に出ていた.スペイン風邪の話は聞いた記憶がない.
新山英輔


浦松様
 上記ブログ読ませていただきました。私はスペイン風邪については全く記憶がなく初めて貴ブログで全体像を知りました。私と同輩なのによくスペイン風邪のことでの身近な出来事に遭遇して記憶しているのはすごいことです。
大変興味深く読みました。ありがとうございました。    谷口


浦松さん、ご無沙汰しております。
スペイン風邪の記事読ませていただきました。
スペインが発祥地ではない事は初めて知りました。
両親も昭和9年生まれなので、浦松さんと同じ記憶を持っていると思います。
聞いてみますね。Madoka


Nakayama Ikumi ご自身のお祖母様についてや、先生のお話など、具体的なエピソードから、歴史が事実であった事を感じることが出来ます。いつも乍ら、名文です。


兄上
ブログをありがとうございました。
祖父の最初の奥さんがスペイン風邪で亡くなった事、初めて知りました。 吉田裕子ハリー


浦松幹雄 様
スペイン風邪の話面白くまた有益でした。相変わらず文章が素晴らしいです。
幼稚園の頃のことも覚えていないし、須藤先生の話も覚えていません。最近になってスペイン風邪はスペインが発症元ではない、ことを知りました。
それにしても新型コロナにも困ったものです。一時忘れかけたSkypeを復活し、孫とテレワークを時々やっています。
ではまた。     戸坂 海


浦松幹雄様  大井啓男です。
たしかに我が家でも、私が小さかった頃、医者が往診の時に持ち歩くような、アルコールを染ませた脱脂綿を入れる小さな金属容器と、家族全員分のマスクがありました。インフルエンザのなごりだったのでしょうね。
マスクは外出の際に掛けさせられた記憶があり、金属容器は子供の玩具にはならず汽車旅行などで駅弁やアイスクリームを食べる時に手を拭かせられていた記憶があります。
そのうちに戦争でアルコールは手に入らなくなり、金属容器も空襲で焼けて無くなってしまいました。
マスクや除菌用アルコールを買い漁る現在は、平和な良い時代なのかも知れません。
(😊そうですね。思い出しました。アルコールで手を拭く「行事」がすたれたのは、戦争でアルコールが買えなくなったからでしたね。――浦松😊)


暑くなりました。コロナの時代、お元気ですか。ご無沙汰でした。メールを整理していて、今日貴方のスペイン風邪に関する小論文に気が付きました。二回目だったそうで。最初のは、残念ながら拝見しておりません。今まで知らなかったこと、いろいろ教えていただきありがとうございました。遅ればせながらメールいたしました。


池田知加恵

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