改訂版★英機を撃て 2

②本人は「ヒデキ」と読んで怒っていた。                      
  
●「英機を撃て」の「英機」――正解は「ヒデキ」である。
 なぜ正解が判ったかというと、当のヒデキが烈火のごとく怒(いか)ったと聞いたからである。(閣下はカッカとなった。)
 東条は配下の憲兵や特高警察に対して、直ちにこの落書き犯の逮捕を命じたという。しかし、当時、この落書きに関する報道はなかったと、私は記憶する。
開戦当初の勝ムードに乗って、東条に対する国民の声価は高かった。
北原白秋の詩に「東条さん」というのがあり、私も小学校でこの詩を聞いたことがある。


朱描きでペガサス描いてある。
ガソリンスタンド、雪のあさ。
「お早う、内儀さん、お寒いね。」
お馬で声かけ、とつとつと、
みんなの宰相ほがらかだ。


 東条は新聞などに、自分が「陸軍大将」の固いイメージではなく、“やさしい東条さん”という、今で言う「イメージチェンジ」に一生懸命だった。
北原白秋はそんな東条の要請に応えて作ったものであろう。
東条は東京の世田谷・用賀の住宅街に住んでいたが、毎朝のように自宅周辺を馬で回り、主婦や子供に愛想よく声をかけ、ゴミ箱を開けては、食料の配給状況などをチェックし、ニコニコと住民を励ました。服装も軍服ではなく、背広に中折れ帽であった。
しかし、このパフォーマンスは非常に評判が悪かったという。要するに「勝ったと思って調子に乗るな」の一言。決戦下の日本にあって、全軍の長である総理大臣は、毅然として事に当たるべきなのに、ゴミ箱を覗いて歩き、ヘラヘラと好々爺を演じていていいのかというのが、当時の識者の反応であったということだ。
しかし自作自演とは別に、公務で見せる東条の顔は、今にも癇癪玉が破裂しそうな、独裁者のそれであった。その独裁ぶりは、大本営が勝利を告げるたびに強くなった。
当時、中野正剛(なかのせいごう)という政治家がいた。東方会という国家主義政党を率いていたが、東条が独裁色を強めるとこれに激しく反発するようになった。
1942(昭和17)年11月10日、中野は自分が卒業した早稲田大学の大隈講堂において「天下一人を以て興る」という演題で2時間半にわたり東条を弾劾する大演説を行った。


「諸君は、由緒あり、歴史ある早稲田の大学生である。便乗はよしなさい。歴史の動向と取り組みなさい。天下一人を以て興る。諸君みな一人を以て興ろうではないか。日本は革新せられなければならぬ。日本の巨船は怒涛の中にただよっている。便乗主義者を満載していては危険である。諸君は自己に目覚めよ。天下一人を以て興れ、これが私の親愛なる同学諸君に切望する所である」


この正剛の呼びかけに、学生たちは誰言うことなく立ち上がり、校歌「都の西北」を歌い出し、すぐさま大合唱となってこれに和した。演説会場には東条の命を受けた憲兵隊が多数おり、中野の演説を制止しようと計画していたが、中野の雄弁と聴衆の興奮熱気はあまりにすさまじく、制止どころではなくなり、コソコソと立ち去って行った。当時、早稲田第一高等学院の学生であった竹下登(のちの総理)は、この演説を聴いて感動し政治家の道を志している。このエピソードにみられるように、中野は近代日本の政治家には珍しい雄弁家の資質をもった人物であった。
●ところが、ここにもう一つ、エピソードがあった。
それは演説会場に貼られていたポスターである。ポスターにはイギリス軍機と東条英機をかけて、次のように書かれていた。
「米機を撃つなら英機も撃て」。
ポスターと言っても、手書きのものであり、実態は落書きに近いものであっただろう。 
書いたのは大川周明(おおかわしゅうめい)であった。
大川は右翼国粋主義運動の理論的指導者であったが、東条に対しては常日頃「東条は下駄なり」と言っていたという。足の下に履くには適するも頭上に戴く器ではないという意味である。
また、ある時はラジオ放送で「北から来た蒙古は北条が退け、東から来たアメリカは東条が片づける」などと冗談を飛ばして聴取者のウケを取った。
要するに、大川は終始、東条をからかっていたのである。その「からかい」の範疇に飛び出て来た「英機を撃て」のキャッチ・フレーズ。
これが私の見た電柱の落書きの原点らしい。読み方はエイキのようでいてヒデキであった。
●一方、中野の反東条の動きはますます高まり、1943年(昭和18年)正月、朝日新聞紙上に「戦時宰相論」を発表し、名指しこそしなかったものの、「難局日本の名宰相は、絶対強くなければならぬ。強からんがためには、誠忠に謹慎に廉潔に、しかして気宇広大でなければならぬ。幸い、日本には尊い皇室がおられるので、多少の無能力な宰相でも務まるようにできているのである」と東条を痛烈に批判した。東条は激怒し、朝日新聞に対して記事の差し止めを命じた。しかし、東条が中野のこの論文を読んだのは記事になってからのことであり、時間的にも差し止めの仕様がない。中野はこれ以来、東条が最も警戒する人物の一人となり、天敵となった。
その年の秋、10月21日、東条の意によって、警視庁特高部は中野の身柄を拘束した。東条は大いに溜飲を下げたが、この中野の身柄拘束は強引すぎるものとして世評の反発を買うことになった。
東条に呼び出されて中野の起訴を指示された検事総長・松阪広政は、中野の言動は大日本帝国憲法第29条によって、合法の範囲内の収まっているとして「証拠不十分でこんな証拠ではとても起訴はできない。大体、総理、あなたは中野のことになると感情的になりすぎる」と東条をたしなめ、喧嘩になるありさまだった
中野は10月25日に釈放されたが、24時間、憲兵の見張り付きという形で非合法生活に追い込まれ、2日後に割腹自殺をした。
こうして、中野は東条の視界から消されたが、二人は一体何を言い争っていたのだろうか?
中野も戦争を熱心に推進した人物であり、基本的には対立する間柄ではなかった筈である。それが抜き差しならぬ対立にまで、二人を追い込んでしまったが、元々の理屈は「お前ではこの戦争を乗り切ることは出来ない」と言い合っていただけで、原因は感情的な反発以外にあり得なかったし、子供の喧嘩の域を出なかったと思う。
●次に、「勝利か滅亡か、戦局は茲(ここ)まできた」、「竹槍では勝てない、飛行機だ、海洋飛行機だ」という新聞記事が飛び出した。1944(昭和19)年2月23日の毎日新聞である。世間で言う「竹槍事件」であるが、書いたのは海軍御用記者の新名丈夫(しんみょう たけお・当時37歳)であった。
評論家、故御手洗辰雄は「国民の間に俄然、この記事は大センセーションを起こし、筆者の訴えんとした志は半日にして全国民の胸に嵐のような感動をまき起こした」と、「日本新聞百年史」に書いた。
当時、陸海軍は航空機の配分を巡って激しく争っていたが、この記事は、陸軍の反感を買い、当然のことながら、東条の逆鱗に触れた。東条は新名を二等兵として懲罰召集をして、硫黄島に送ろうと考えた。
ところが、新名は弱視のため兵役は免除されていた。しかも徴兵検査を大正時代に受けていたとあって、1944(昭和19)年の年齢は37歳とかなり高かった。政府は前の年、1943年10月21日に、雨の降りしきる中、明治神宮外苑にて、出陣学徒壮行会を行なったが、その10日後の11月1日には兵役法を改訂して、兵役を45歳まで引き上げていた。つまり、学生層の徴兵猶予を奪うとともに、初老層からも召集の上限を笠上げし、動員体制を厳しくしたのであった。しかし、法律上は召集できるものの、大正時代に徴兵検査を受けた者は、既に兵役を終え、社会に復帰していた。
陸軍の真意を見抜いている海軍は「新名のような大正生まれのロートルをひとり取るのはどういうわけか」と、意地の悪い質問を陸軍に対して放った。焦った陸軍は大正時代に徴兵検査を受けた者から250人を丸亀連隊に召集して辻褄を合わせた。
新名自身は海軍の庇護があったが、日中戦争時には陸軍の従軍記者をやっていたことがあり、陸軍内にも顔の利く連中がいた。新名はそのコネを活かして連隊内で特別待遇を受け、3か月で召集解除となって帰って来た。哀れを留めたのは、新名との抱き合わせで丸亀連隊に召集された250人である。彼らは送られた先の硫黄島で、全員、壮絶な玉砕を遂げてしまった。
陸軍は新名を再召集しようとしたが、国民徴用令により海軍が先に保護下に置いた。
●日本国内で、このように次元の低い争いが進められていた頃、太平洋上では日本本土を目指した米軍の進攻作戦が着々と進められていた。
1943(昭和18)年11月には、ギルバート諸島のマキン、タラワ両島で、日本守備隊が玉砕した。3か月後の1944年2月には、マーシャル群島のクェゼリン、ルオット両島での玉砕。そして同じ2月17日早朝、米軍は2日間にわたってトラック諸島に大空襲を展開した。(トラック諸島は現在チューク諸島と名を変えている)
ガダルカナルの敗北後、米・豪軍の本格的な反攻が始まると、日本軍は連合艦隊の拠点を日本国内から前線に近いトラック島に移していたが、1944(昭和19)年2月10日未明、連合艦隊の主力15隻がトラック諸島を離れた隙を突いて、米機が襲って来た。空襲開始から2時間足らずで航空部隊が壊滅されると、次は殆んど無防備の輸送船が標的にされ、これも全滅した。この空襲で日本軍が受けた損害は、沈没、輸送船31隻と艦艇10隻、墜落、航空機279機、死者は2、000人以上にのぼった。
しかしそれ以上の大きな損害は、トラック島が連合艦隊の拠点としての機能を失ってしまったことであった。その廃墟と化したトラック島に大本営はさらに「不急不要」の多数の将兵を送り込んで行った。トラック諸島が米軍の基地として利用されることを恐れたからである。
幸い、トラック島ではイモなどが採れたため、多くの兵士が敗戦まで餓死は免れた。
トラック島の大空襲は軍と政府にとって、大きなショックであった。
東条は2月19日に内閣改造を行い、陸軍大臣を兼務していた自分自身が、さらに参謀総長を兼務することとし、同時に海軍大臣の嶋田繁太郎に軍令部部長を兼任させた。これによって、統帥権独立の観点から分離されていた軍令系統(参謀総長・軍令部長)と軍政系統(陸軍大臣・海軍大臣)が、慣例を破って兼務される異例の状態が生じ、これがまた、天皇の統帥権を侵すものではないかと、厳しく批判された。この兼任問題を機に皇族も東条に批判的になり、例えば秩父宮は、「軍令、軍政混淆、全くの幕府だ」として武官を遣わして東条に抗議した。
東条の暗殺が計画されるようになり、「英機を撃て」のささやきが大きくなった。例えば7月15日、高松宮のお声がかりで御用掛の細川護貞が殿下と東条暗殺の是非などを論じ合ったが、議論が進み、暗殺の可能性が見えてくると、言い出しっぺの宮様の方が、黙りこくってしまい、話は中途半端で終わってしまった。
なお、1944(昭和19年)4月12日の「細川日記」によれば、前総理大臣の近衛文麿は「このまま東条にやらせる方がよい。せっかく東条がヒットラーと共に世界の憎まれ者になっているのだから、彼に全責任を負はしめる方がよいと思う」と東久邇宮に意見具申していたという。
このように、戦局がいったん落ち目になると右翼勢力までもが東条を激しく敵視するようになり、東条は何をやっても批判をされるようになった。東条英機は正に落ち目の三度笠であった。それにつけても、近衛文麿は本当に悪い男である。
次に、陸軍の津野田知重少佐と柔道家の牛島辰熊の間で、東条暗殺について話し合われていた。計画はかなり具体的なもので、東条が乗っているオープンカーに向けて、皇居二重橋前の松の樹上から青酸ガス爆弾を投げ付けて東条を暗殺するというものであった。暗殺の現場が目の前に浮かんでくるようであり、ビジュアル的で判りやすいし面白い。計画の背後には東条とは犬猿の仲の石原莞爾(いしわらかんじ)が絡んでおり、二人を激励した。
津野田と牛島の二人は三笠宮もふだんの「お言葉」から判断して、彼らの暗殺計画に賛成してくれるだろうと思って、細部を打ち明けて相談したところ、最初は静かに話を聞いていた三笠宮は、肝腎なところで一転して「余は東条の暗殺までヤレと言った覚えはない」と豹変、そのまま憲兵隊に通報されてしまった。
また、海軍の高木惣吉らのグループらも早期終戦を目指して東条暗殺を立案した。
一方、6月15日にサイパン島に上陸した米軍は7月7日に同島を制圧し、追いつめられた日本軍約3千名は最後の総攻撃を敢行して玉砕した。6月19日にはマリアナ沖海戦があったが、ここでも日本海軍は敗北し、西太平洋の制海権は完全にアメリカ側に奪取された。
サイパン島が陥落すると、岸信介国務大臣兼軍需次官(開戦時は商工大臣)が東条に「本土爆撃が繰り返されれば必要な軍需物資を生産できず、軍需次官としての責任を全うできないから講和すべし」と進言した。これに対し、東条は岸に「そういうことを言うのであれば、お前が辞職せよ」と迫った。ところが、岸は辞職要求を拒否し続けたため、閣内不一致が明白となり、7月18日東条は内閣総辞職をした。
東条が辞職すると、暗殺計画はことごとく雲散霧消した。
戦争を始めた当事者である総理大臣が辞職したのだから、普通なら、ここで戦争は止めるべきであるが、そういうこととは関係なく戦争は続けられて行った。このことを考えても、東条は太平洋戦争の最高責任者ではなかったし、本人も回りもそう思っていなかったことが判る。
辞任後の東条は、重臣会議と陸軍大将の集会に出る以外は、用賀の自宅に隠棲し畑仕事をして暮らしていた。
●7月22日、東条の後の内閣総理大臣の職は、それまで朝鮮総督だった小磯國昭が引き継いだが、硫黄島の陥落や沖縄への米軍の上陸など、悪化の一途をたどる戦局の挽回を果たせず、中華民国との単独和平交渉も頓挫し、1945年(昭和20年)4月に辞任し、鈴木貫太郎に後を譲った。総理大臣就任時の小磯は「日本はこんなに負けているのか」と口走るほど戦況に疎く、日本の置かれている状況についての認識もゼロに近かった。小磯は予備役に編入されてから6年も経っていたのである。また予備役のまま総理大臣に就任したことで、戦局を検討する大本営の会議にも規則により出席できないという身の上であった。
11月7日、サイパン発の米爆撃機B-29が、偵察のため東京上空に初めて姿を現した。
日本本土への無差別攻撃が始まり、それから9か月間、日本本土は焦土と化し、戦争は最終局面を迎えた。
●鈴木貫太郎内閣が誕生した4月の重臣会議で東条は、重臣の多数が推薦する鈴木貫太郎首相案に不満で、畑俊六元帥(陸軍)を首相に推薦し「人を得ぬと軍がソッポを向くことがありうる」と放言した。岡田啓介は「陛下の大命を受ける総理にソッポを向くとはなにごとか」とたしなめると、東条は黙ってしまった。しかし現実に陸海軍が統帥権を楯に、小磯内閣に従わなかったため、小磯は苦境に陥っていた。まさしく「軍がソッポを向いた」のであり、東条の指摘は当たっていた。
●沖縄本島への上陸に先立ち、米軍が慶良間諸島に上陸した3月26日の朝、慶良間諸島や沖縄本島の人たちが家々の窓から見た海上の光景は、アメリカの太平洋方面のほとんど全兵力が結集するという、たいへん恐ろしいものであり、1300隻を超える海軍艦艇と400隻以上の輸送船がひしめき合っていた。
一方、日本には既に連合艦隊はなく、操縦士と言う生身の人間が爆弾を抱いて敵艦に体当たりする神風特別攻撃隊(特攻隊)しか反撃の武器がなかった。
ある特攻隊員の詠える――慌てし者小便したいままで征き
4月1日午前5時30分を期して、沖縄本島沖合に群がる219隻のアメリカ戦艦、巡洋艦のすべての砲列が沖縄本島に向けて火を噴いた。特に上陸地点であった読谷山村(ゆんたんざむら)から北谷村(ちゃたんそん)にかけては、何と11万発の砲弾が撃ち込まれた。これは「鉄の暴風」と呼ばれる史上最大の上陸支援作戦であり、日本に対して、まさに武器の性能の違いと物量の差を見せつけるものであった。
日米の物量の差というものは日本側の首脳陣には、よく判っていたわけで、アメリカがこの作戦を展開していたさなか。小磯が沖縄戦の見通しを参謀本部の宮崎周一郎に尋ねたところ、宮崎は次のような返事をしていた。「結局、沖縄は敵に占領せられ本土への侵攻は必至」。
沖縄の戦いはこのようにして始まり、アメリカに追いつめられ、約78日間の戦いのあと、最終段階に至った。6月18日には、第32軍司令部と各部隊との通信が途絶した。軍としての組織的戦闘が不可能となったのだ。 
第32軍司令部は最後の命令を下達した。命令文は長(ちょう)参謀が起案したが、長が「諸士よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」の一項を付け加え、牛島が黙って署名した。その後、大本営と台湾の第10方面軍に訣別電報を送った。
その時、天皇は最高戦争指導会議構成員に対し、太平洋戦争終結の意思を表明した。15年に及んだアジア・太平洋の戦争も、ようやく終結に向けて、滑車が回り出した。 
牛島満軍司令官と長勇参謀長の自決は、6月23日未明とされる。そして25日、二人の遺体は米軍によって発見され、その死が確認された。
 ●沖縄の戦争の特徴は、軍が住民を巻き込み、軍民混在の戦争をしたことであった。軍民混在とは、民が軍をガード(防衛)することにほかならない。そのため、沖縄島民の4人に1人が犠牲になったと言われている。沖縄戦は末期になればなるほど、日本軍が沖縄県民に対して凶暴になり、ガマにいる避難民を「作戦のため」と称して追い出し、言うことを聞かなければ殺した。
洞窟(ガマ)などでの民間人の集団自決も頻発した。


証言―伊江島西江上サンダタ壕――兵隊さんたちが「1,2,3」と号令をかけるから全部で手榴弾を破裂させなさいと命令しました。あちこちでパンパンパンと手榴弾を破裂させました。
私がランプをつけると、腸が全部飛び出して苦しんでいるおばさんを見つけました。「くびってくれ、くびってくれ」と言うので私が腸を中にいれ、黒い帯でその腸を押して巻いていくと、きれいにおさまっていきました。血もいっぱい出ていました。また腸が出てくるのです。
あっちでも、こっちでも。「助けて」「水飲ませて」とワーワーしていました。長い髪が解けて、顔もみな真っ黒になって、生き地獄のようでした。
この壕に1週間ぐらいいたのですが、もう死体が腐っていき、臭いがすごかったです。
(伊江島の戦中・戦後体験記録)から)


証言―糸満のカミンドウ壕  アメリカが爆弾を投げ入れ、これをきっかけに壕内で家族親類ぐるみで「パン、パン、パン」と手榴弾による集団自決が始まったのです。私の近くでは死ねずに大怪我をシテ「お水ちょうだい」と本土出身の看護婦が泣いて苦しんでいました。みんな自分のことで精一杯だから助ける人はいませんでした。二人の妹は流れてきた破片で亡くなりました。
 自決した方の血の生臭さは収容所から戻ってきても自分の鼻に残っていました。友軍の兵隊がいなければみんな壕の外に出て助かったはずです。(糸満市史から)


また、沖縄戦の中であまり語られていないのが、ハマダラ蚊(マラリア蚊)による大量病死事件である。この事件は戦場にならなかった八重山諸島で起きたので、沖縄戦の一部として取り上げられる機会が少ないが、発端は日本軍が住民たちをマラリア有病地に、軍命によって移住させたことによる。
日本軍は「米軍上陸」を口実に、一般住民たちに対し、山間部のジャングル地帯への「移住」を命令した。軍は移住先を細かく指定。それらは、ハマダラ蚊が媒介する恐ろしい熱病・マラリアの有病地として、昔から住民たちに恐れられてきた場所であった。医療も食糧も乏しい中、ジャングルの中に粗末な丸太小屋をたてて生活を続けた住民たちは、次々とマラリア蚊の犠牲になり、3、600人以上が死亡した。沖縄では「もうひとつの沖縄戦」と呼ばれている。
●戦争終結への日本側からの動きは、連合国に対する和平交渉の斡旋役をソ連に依頼することから始まった。外務省とソ連大使館員との間で、接触があることを伝え聞いた天皇は7月7日、東郷外務大臣に「親書を持った特使を、ソ連に派遣してはどうか?」と述べた。7月12日、近衛は天皇から正式に特使に任命された。日本外務省は、モスクワの日本大使館を通じて、特使派遣と和平斡旋の依頼をソ連外務省に伝えることとなった。近衛文麿久々の登場予定。
しかしソ連には、日本の意向を連合国に伝える気持ちなど、サラサラなかった。既にソ連は、1945年(昭和20年)2月のヤルタ会談において、ヨーロッパでの戦勝の日から3ヶ月以内、即ち8月末には、日本に対して宣戦布告することで米英と合意していたし、参戦して勝利の暁には、南樺太、千島列島を戴くという「分け前」に預かる話にもなっていた。
それを示すかのように、5月から6月にかけて、ポルトガルやスイスにある在外公館の陸海軍駐在武官から、ソ連の対日参戦についての情報が日本に送られたり、モスクワから帰国した陸軍駐在武官補佐官から「シベリア鉄道におけるソ連兵力の極東方面への移動」が関東軍総司令部に報告されたりしていたが、これらの決定的に重要な情報は全て、日本軍・外務省の間では、不都合過ぎて”真剣に共有されなかったか、重要性に気付かれないまま捨て置かれていただけであった。
一体、何が不都合過ぎたのか?それは地獄の釜のふたが開いてしまうことー―日本軍国主義の破滅を直視することの恐怖だったのだろう。
7月14日。ソ連のスターリンと外相のモロトフは日本への回答を保留にしたまま、共にポツダムへ出発した。
16日、アメリカは世界初の原子爆弾開発、実験に成功した。
トルーマンも当初、ルーズベルト同様、早期の戦争終結にソ連の対日参戦が有効であると考えていたが、原子爆弾実験の成功報告を聞き、ソ連の参戦がなくともアメリカ案通りの宣言内容で、日本に無条件降伏を勝ち取れると考えるにいたった。
スターリンはトルーマンの出方を見て、アメリカは戦争を早期に終結させ、ソ連に約束した譲歩(東ヨーロッパや日本への領土要求、対ドイツ戦で疲弊した経済への援助)を反故にする魂胆であるとの確信を強めた。ソ連は原爆投下をアメリカの対日占領計画の第一歩と見て、日本攻撃開始日としていた8月下旬をもっと早める決定をした。
7月17日から8月2日にかけてポツダム会談が、アメリカ:トルーマン、イギリス:チャーチル、ソ連:スターリンによって開かれた。
また7月26日には日本政府に対して日本軍の無条件降伏などを求めるポツダム宣言が表明されたが、会議の公式日程では対日問題は協議されなかった。
7月27日 東郷外相は天皇にポツダム宣言訳文を示し「日ソ交渉が継続中でありその行方を見て結論を」と上奏した。
日ソ交渉は「継続中」でないばかりか始まる筈もなかった。
東郷外相はヤルタ会談でソ連の対日参戦が決まっているので、日ソ交渉の余地はないと考えていたが、軍部の要求でこの上奏となった。鈴木首相もまた、軍部の要求に応じて、「ポツダム宣言を黙殺する」という声明を発表した。アメリカはこの発表を「拒否」と受け止め、次の軍事ステップである原爆投下に踏み切らせる口実になった。
8月6日午前8時15分。広島に原子爆弾が投下された。
8月8日午後5時(日本時間:午後11時)、ソ連のモロトフ外務人民委員から日本の佐藤尚武駐ソ連大使に「ソ連は8月9日より日本と戦争状態に入る」旨伝えて来た。ところが同日、ソ・満国境、興凱湖にソ連軍大部隊が入り込み、日本軍と小競り合いになった。ソ連側の現地司令官が、侵入期日を1日間違えたのであった。
8月9日、午前0時を期して、ソ連軍が満州国境、サハリンの軍事境界線を越えて侵入。
同日、午前11時、米軍機が長崎に原爆投下。
ここで、初めて日本政府は「降伏」を議題にした最高戦争指導会議を開くことになった。
会議は午後11時50分から皇居内にある御文庫と言う名の地下防空壕にて始まった。
日付が変わり、8月10日午前2時を回ったところで、鈴木貫太郎が昭和天皇の意見を求めた。
「まことに異例で畏多いことでございまするが、ご聖断を拝しまして、聖慮をもって本会議の結論といたしたいと存じます」
促された昭和天皇は言明した。
「それならば自分の意見を言おう。自分の意見は外務大臣の意見に同意である」
この瞬間、ポツダム宣言の受諾が決まった。
続けて天皇は次のように所信を述べた。
「大東亜戦争が初まってから陸海軍のして来たことを見ると、どうも予定と結果が大変に違う場合が多い。今陸軍、海軍では先程も大臣、総長が申したように本土決戦の準備をして居り、勝つ自信があると申して居るが、自分はその点について心配している。先日参謀総長から九十九里浜の防備について話を聞いたが、実はその後侍従武官が実地に見て来ての話では、総長の話とは非常に違っていて、防備は殆んど出来ていないようである。又先日編成を終った或る師団の装備については、参謀総長から完了の旨の話を聞いたが、実は兵士に銃剣さえ行き渡って居らない有様である事が判った。このような状態で本土決戦に突入したらどうなるか、自分は非常に心配である」
軍に対する不信感がありありである。「とてもこの先、任しておくわけにはいかない」と言うのである。天皇は続けて次のように述べた。
「(このまま戦争を続ければ)日本民族は皆死んでしまわなければならなくなるのではなかろうかと思う。そうなったらどうしてこの日本という国を子孫に伝えることが出来るか。自分(私)の任務は祖先から受けついだこの日本を子孫に伝えることである。今日となっては一人でも多くの日本人に生き残っていて貰って、その人達が将来再び起ち上って貰う外に、この日本を子孫に伝える方法はないと思う」(以下略)
これは敗戦後、しばらく言われていたような「天皇の国民に対する慈しみ」などと言うものではなくて、天皇、”一人ぽっちの自衛戦争”である。
日本民族が消滅してしまったら、天皇制はもとより、「護持すべき国体」がなくなってしまい、「国体」よりも何よりも「天皇家」「皇室」が消滅してしまう。
●午前7時、中立国のスイスとスウェーデンの日本公使あてに、ポツダム宣言を受諾するとの電報が送られた。両公使によって降伏の意思はアメリカ、中国、イギリス、ソ連に伝達された。
午前11時、東郷茂徳外相はソ連のヤコフ・マリク駐日大使と会談した。東郷はマリクからは公式な宣戦布告状を受け取り、ポツダム宣言受諾の意思を伝えた。(*1)
午後7時(日本時間)、日本政府の対外情報発信の役割を担っていた「同盟通信社」は、対外放送で、日本の降伏受け入れ意思を表明した。しかしこのニュースは、日本国民には伏せられ、代わりに、翌日の新聞は、食糧不足についての記事で埋め尽くされていた。例えば、「東京で配給食糧の二重取り三重取りで検挙された者8807名とは呆れる。明るみに出たものだけでこれだから実際はもっと多いものと想像される。その犯人の多くは人事を扱う地位を悪用したものだというから極めて悪質である」(読売報知)というような、井戸端会議次元で囁かれていた庶民の「怨嗟の声」が掲載された。主婦に向けた「お上(かみ)はすべてお見通しだぞ」というガス抜きが目的のようであった。  
しかしポツダム宣言の受諾が通告された後でも、降伏条件の字句をめぐって、軍部、政府間で紛糾が続き、軍部は戦争継続を主張した。
そこで、再び御前会議が開かれた。8月14日10時50分のことである。
天皇は「自分の非常の決意には変わりない。内外の情勢、国内の情態、彼我国力戦力より判断して軽々に考えたものではない。国体については敵も認めていると思う」と、8月10日と同様の発言をし、さらに「自分自らラジオで放送してもよろしい。」と述べた。



11:40
満州西部の葛根廟で、新京(長春)をめざして避難していた日本人居留民ら約2000人が、ソ連軍の戦車部隊に襲撃され、1000人以上が死亡した。(葛根廟事件)。
正午すぎ
大阪・京橋駅を爆弾が直撃~大阪城内にあった兵器工場(大阪陸軍造兵廠)をB-29が爆撃。1トン爆弾が、近くの国鉄京橋駅のホームを直撃した。列車の乗客ら500~600人が犠牲になったとみられる。
山口県の兵器工場、光海軍工廠では、学徒動員中の女学生ら少なくとも738人が死亡した。
13:00~
首相官邸で閣議。玉音放送の放送時間や録音方法などについて、断続的に深夜まで議論を続ける。詔書の文言を巡り、閣員や宮内省からの注文が相次ぎ、詔書作成は修正に修正を重ねる。
14:40
陸軍省で陸軍首脳者会議。「皇軍はあくまで御聖断に従い行動す」とする「陸軍の方針」を決定した。阿南陸相、陸軍省職員に訓示。昭和天皇の「聖断」に従うよう求める。陸軍省の裏庭で重要書類の焼却が始まった。
詔書の完成が遅れ、連合国への通告も遅れた。空襲はこの夜も続いた
20:30
終戦の詔書が完成。昭和天皇の裁可を受けた。
当時の政府は、広島と長崎の原爆、ソ連参戦という、誰の目にも明らかな破局の事態を迎えて初めて降伏を決める。これを決断と呼ぶならば、あまりにも遅いものであった

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