パーマネントをかけすぎて

 8月8日(土)明星学園中等部時代の私の友人である新山英輔(にいやま・えいすけ)氏から、彼のブログ・「えぬめえる」270号が送られて来た。
 記事は目下、蔓延中の新型ウイルスの件であった。
新型コロナ・ウイルスの感染者数は4月中旬のピークのあと、しばらく下降していたが、7月に入って盛り返し、4月を上回る勢いで増加をしている。発生を棒グラフで見ると、明らかに第2波の襲来である。

 感染の拡大を防止する対策としては、4月頃から「三蜜」という言葉が頻繁に聞かれるようになった。例えば、コンビニのレジでの行列では、前の人との間に距離を取るなどの表示も行われ、人々は現実にその「三蜜」の中に巻き込まれるようになった。
 「三蜜」とは人と人との間に「間」をとって、「密接にしない」「密集しない」「密閉にしない」ということである。英語ではSocial Distanceと言っている。
 官製造語であるが、コロナ・ウイルス蔓延下に「やってはいけない事」を手際よくまとめている。しかしこれでは商売は上がったりである。
 コロナウイルスが出没し始めた半年前、2019年の10月1日、日本政府はこれまで8%だった消費税を10%に増税した。これは国民の消費マインドを冷やし、購買力指数とやらを著しく低下させた。
 不況の到来は必至であり、消費税増税に踏み切った政府への風当たりも強くなることが予想された。
 ところがそこに登場したコロナ・ウイルスは、GDPを年27.8%も減少させ、戦後最悪の落ち込みとなった。

 購買力の低下という、消費税増税の時と同じタイプの不況であるが、経済に与えた衝撃は消費税のそれよりはるかに大きかったため、安倍内閣の失点を覆い隠してしまった。
 更なる規制と言うか、要請というか、「不急不要の外出は控えて欲しい」という放送が流れ、さらに千葉県など複数の地方自治体の知事から、「東京ナンバーの車、本県乗り入れお断わり」という要請が飛び出して来た。
 おかしな話である。
東京から千葉県に入ってくる車は、すべてが遊びに来ているわけではなく、殆どが仕事のための移動であろう。「本県に入ってくるな」と言われても、入ってこないわけにはいかないし、入ってきた以上は出て行かないわけにもいかない。従って、要請しても実効性のない、意味のない要請なのである。
 千葉県知事は、はたしてそこまで考えての発言だったのであろうか。
 何となく「世の中おかしくなってきたぞ」と思わせる。
 すると、そこに「自粛警察」なる不良グループが登場して、千葉県内を通行する東京ナンバーの車にいやがらせをしたり、キズをつけたりするというようないたずらを始めた。
 世の中は確実におかしくなった。


 そこで、新山氏の「えぬめえる」270号に目を転じる。


 「三密に違反する人とか店に対する世間の白い眼は戦前のパーマネントやおしゃれに対する愛国婦人会など「正義漢」たちのいやがらせに似ている」。


 これは戦前の暗くていや~な時代の思い出である、昨今の感染症拡大防止対策から、そこはかとなく漂ってくる忌まわしい時代の雰囲気である。
 その忌まわしい雰囲気が、私たちの記憶を 1937年(昭和12年)ころに押し戻して行く。

 日本は中国と戦争を始めた。 
 ところで 明治以降の日本の対外戦争の舞台は、すべて中国大陸であった。そこで日本軍が見た中国人や中国兵は、非常に纏まりのない弱くて逃げ惑う民であり、兵士であった。
日本は中国を舐め切ってしまったが、逆にその中国が欧米に屈し、アジア侵略の足場となって行くのではないかとも恐れた。
「あの弱い中国のことだから」この戦争は中国の屈伏によって、早期に決着するだろうと、日本軍も日本政府も考えていた。しかし中国軍の抵抗は強く、戦乱は上海から南京へ、武漢へ、済南へ、さらに重慶へと及び、ついに中国全土に広がった。
南京攻撃の際、日本軍は市民や捕虜に対して大掛かりな虐殺事件(Nanjing Atrocities)を引き起こした。日本国内では、この事件について一字一句報じられなかったが、逆に「勝った」「勝った」のお祭り騒ぎになった。
私もちょうちん行列に参加。夜の闇の中を揺れる無数のちょうちんと、興奮した人々に囲まれて、わけも判らずにはしゃいでいた。


戦争が長期化すると、もともと資源の乏しい日本の経済力はたちまち底を突いた。
人々の生活に不可欠な物資の原料や材料は軍需用に回されるようになり、民需用としては出回らなくなった。代わって町には、「代用品」なるものが幅をきかすようになった。衣服から絹や木綿、羊毛はなくなり、代わってスフなる化学衣料品が開発された。ガサガサした肌触りであった。雨に濡れると溶けてしまった。
牛革も軍需に回され、代わりに魚皮靴 や鮫皮靴、鮭皮靴、魚皮ハンドバッグなどが登場したが、使い物にはならなかった。
中でも傑作だったのは木炭自動車であった。
自動車はガソリンがあって初めて動くが、そのガソリンが町には、ドラム缶をひっくり返しても、一滴も残っていなかった。そこで、出てきたのが木炭車である。
タクシーであればトランク部、バスなら背面に大きな釜を積み、その釜で火をおこし木材をいぶして一酸化炭素ガスを発生させ、エンジンを動かした。
代用品の話は、当時の国民生活の全般にわたるので、数え上げたらキリがない。
 靴底がボール紙製のズックを履かされた私は、すぐ破損したため、裸足で冷たい霜の上を走らされたこともあり、冷たいのと痛いので泣く思いをした。
このような動きに併せて、国民精神総動員運動なるものが、政府の肝いりで始まった。狙いは粗悪品で溢れる市場の中で、ぜいたくや買いだめをさせないことであった。やがて、それは経済の統制や配給制度に直結した。
「ぜいたくは敵だ」と書かれた看板が立ち並ぶようになった。そのように殺風景になった繁華街を、若い女性が振り袖姿で歩いてくると、そこに白いエプロンのあっぱっぱ姿の「愛国婦人会」の「正義漢」がハサミと糸・針を持って立っており、「お嬢様、その振り袖はお止め遊ばせ。時局柄、ぜいたくは敵でございます」とやらかして、袖を切りだしたのである。
私は「愛国婦人会」のタスキがけ婆さんの時局便乗の愚行について、古い雑誌などでよく見ることがあるが、その都度、この時切り取られた振り袖の切り離された部分は、どのように処分されたのだろうかと思う。端切れと化した袖の部分に、他に転用すべき用途があったのだろうか。

 もし用途があったのであれば、切り取ると同時に対価が支払われなければならないが、そのような記述にお目にかかった記憶はない。
 ぜいたく禁止だけを目的にして、通行の女性の衣服にハサミを入れていたとすれば、それは嫌がらせを飛び越して犯罪であった。
 お上の威光をカサにきた卑劣な行為が、白昼堂々まかり通っていたのだ。


 「おしゃれ」と「ぜいたく」は全く違うが、言葉の上では区別がつかない。話す人の考え方によって、「おしゃれ」にもなり「ぜいたく」にもなる。パーマネントはその好例であった。
 日本でパーマネントの営業が始まったのは1930年(昭和5年)頃のことで、当時としては最新の美容技術であった、1935年(昭和10年)代には大流行となった。
 ところがそこに軍の目が光り、タスキ掛け婆さんたちの出陣となった。
 婆さんたちは、街頭に立って洋髪の女性に"パーマネントは止めましょう“のビラを渡してプレッシャーをかけ始めた。
 春吉五番丁という町では住民が「町常会の決議により、パーマネントのお方は、当町通行をご遠慮ください」という、自分たちの決議を看板にして公告、実力行使に移った。(写真)
このような雰囲気だったから、子供たちも「パーマネントを止めましょう」と歌いだした。
 再び、新山氏の「えぬめえる」270号である。


小学生の私は尻馬に乗ってパーマネントの何たるかもほとんど知らないくせに「♪パーマネントをかけすぎて見る見るうちに禿げ頭,パーマネントは止しましょう♪」という歌を歌っていた」


 私も同様の歌を歌った。これは当時の国策に沿った、実に不真面目な歌であった。しかし驚きであった。私が新山氏を知ったのは、戦争が終った翌年のことであり、平和がよみ返った後のことである。
 新山氏は勉強もよくでき、礼儀も正しく、加えて服装にもスキがなかった。そのような新山氏の印象は、こんにちまで続いて来て、こんな不真面目な歌とは縁
のないものだった。
 その新山氏がこの歌を歌っていたのである。
私の場合、ある日のこと、突然、外出した母に同行して、近くの商店街まで行った。ところが突然、母の姿が見えなくなったので、クルクル目を回すと、どうも近くのパーマ屋に入ったようであった。そして、パーマ屋の窓から首を入れて中を見回すと、パーマをかけている母を発見した。
 そこで、諦めて家に帰ってしまえばよかったのだが、私はただちに「パーマネントをかけすぎて」の歌を歌い、パーマ屋の前をグルグルと一人デモを敢行した。今のJR目白駅から西に延びる大通りの下落合1丁目交番の近くである。
「パーマネントをかけすぎて
 あっと言う間にはげ頭
 あとに残るは毛が三本
 あゝ、恥ずかしや
 恥ずかしや
 パーマネントはやめましょう」
 歌詞は子供たちの所属していた共同体によって若干の相違がある。
 ただ一つ歌声高し、歌声はいつまでも鳴り止まなかった。今度はパーマ屋の窓が開き、中から女性の声が響いた。
ーー坊や、だれと一緒に来たの?
ーーお母ちゃん。
ーーこの中に坊やのお母ちゃん居る?
ーーうん、いるよ。奥の壁から2番目に座っているよ。
 デモはみじめに敗北した。私が母親からコテンパンに叱られたのは言うまでもない。


 戦争は主な舞台を中国大陸から太平洋に移し、米英との戦いが始まった。アメリカ生まれのパーマネントは一段と目の敵にされるようになり、排斥運動も強化された。ところが、いくら目の敵にされても、パーマネントが日本から一掃されることはなく、むしろ利用者は増えていたという。
 私が本稿の作成をスタート
させた8月中旬頃、朝日新聞に「目の敵でもパーマは続いた」という記事が掲載された。資料を探していた私にとって、この記事はおあつらいであった。
 その中で、ことし84歳の大塚良江さんと言う人の話が紹介されているが、「近所が米軍の機銃掃射を受けた時のこと、母と消火活動に加わって店に戻ると、もんぺ姿の数人が開店を待っていた」という。
 また、電力の節約のため、パーマネントは女性たちが持参した木炭を使用して加熱をしたという。空襲が激化し、生命の危険が身近に迫った時、身を焦がすことになるかもしれないが、身辺を美しく清潔に保つのは、誰しも望むところだったのだ。

町常会の決議により、パーマネントのお方は、当町通行をご遠慮ください
と書いてある。


🐜🐜🐜🐜蟻🐜🐜🐜🐜🐜
ニフェ デービル (日本・沖縄方言)~ありがとう💛投稿欄


浦松様
須藤先生の炭素14の話も僕はもちろん覚えていません.
でも二人の先生がこういう話題に興味をもって,しかも生徒を相手に話したということは,戦後の若い人たちの新しい科学や情報に対する熱い渇望みたいな気持ちを物語っているのではないでしょうかね.希望のある時代だったのではないか? いまそんなことが中学校で起こっているでしょうかね? 
新山 


この話は本当に面白いですね。須藤先生は良い授業をしてくださいました。


それに君の文才がこのことを余計に面白くしてくれました。普通だったら何もなかったで終わっているものをよく掘り起こしてくれました。質が高くて素晴らしかったです。


何とかこれを須藤先生に届けたいですね。きっとお喜びになると思います。


英ちゃん(註)も私も先生の授業の内容は忘れてもこの年まで先生自身を覚えていたので、それが救いです。


戸坂 海
(註)英ちゃん=新山英輔君のこと

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